土居弘元先生による交渉学Web講座

行動科学

NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元

経済学の領域で「行動経済学」が広く認識され始めている。きっかけとなったのは2002年にノーベル経済学賞をカーネマン教授が受賞したことによる。2000年頃はカーネマンの名前を知っている日本の経済学者は少数派ではなかっただろうか。その研究は、認知心理学の応用として合理的な選択を人はするものだろうか、について考えるものであった。いわゆる実験によって実証するという心理学の方法を適用するものである。同じ認知心理学の研究者であるトヴェルスキーと共同研究をし、論文も共著として相当数発表しておられた。掲載される雑誌も“Psychological Review”や“Science”であったが、“Econometrica”や“The American Economic Review”、“The Journal of Business”のような経済学系の研究誌へと移っていった。経済活動をするのが人間であり、その基礎となるのは生身の人間行動であるという考え方によるもので、妥当な考え方である。人間が行う選択は、考えることの中に枠が作られていて、すべて自由な発想の中から選択が行われるのではないということを実験で示そうとするものであった。つまり「合理的な思考にも限界がある」という考え方であり、H. サイモンが示唆していた限界がある合理性という考え方を実験で証明したものなのである。そのような人間行動を新たな枠組みを作って考え、それを経済学のなかに組み込んだということがノーベル賞という形で認められたのである。研究者にとって、それは経済行動や経営行動の研究に新たな道をつくるものであり、喜ばしいことにその流れは広まりつつある。マーケティング研究の大御所的存在であるコトラーは「カーネマンの研究もマーケティングの領域の研究である」と述べている。しかし、これは急に花開いた現象ではないことを述べたいと思う。

このような形で、心理学を人間行動に関する領域に応用しようとする流れは従来から行動科学(Behavioral Science)という名称で行われていて、経済学にも経営学にも一部では相当に影響を与えていたことである。私が経験したことを中心に語ってみたい。

1960年代の半ば、私が大学院の商学研究科修士課程に入った時には、ほとんどの先輩が行動科学の重要性を語っていた。しかし、その内容に関してはあまり語られることがなく、当時カーネギーメロン大学の研究者がその領域で活躍していることが伝えられるだけであった。その中で誰もが読むべき本として取り上げられたものがサイモンの著書『経営行動』とサイモンと心理学者マーチとの共著『組織』であった。ただこれらの本を輪読しましょうという大学院生の活動はなく、また授業で取り上げる先生もおられなかった(当時の大学院における修士課程の授業は講義形式か、評判の本を輪読するという形式がほとんどであった)。仕方がないので、エアコンの良く効いている日比谷図書館へ『組織』を持ってひと夏通い、「ああ、解らないな」と嘆いてアパートに帰りガックリしたことを思い出す。十分な基礎知識もない若者にとって直接飛びついて理解できる内容ではない、ということを後に読み直してみてしみじみ感じた。そのほか、経済学者サイアートと心理学者マーチの共著『企業の行動理論』という当時評判の書を、ある授業で先生に頼み込んで輪読の対象として取り上げてもらった。経済学の行き方とは違うなあ、と感じたことを思い出す。

行動科学に関心を持ったのはこの頃までで、行動科学の領域から離れてしまった。規範的な方法で意思決定を考えるH. レイファ教授の「決定分析」に魅せられて、これをズッとやってみようかなという思いに駆られたからである。1人で本を読み、研究誌の論文を読み進んでいくのはなかなか大変なことであった。そのような状況を打破できたのは34歳の時、MITにおける2週間のサマープログラムに参加する機会を得ることができたからであった。そこで得た多属性効用関数の理論の知識は私の生涯を決めた理論である。その後、藤田先生の「交渉に決定分析を結びつけてみないかい」というお話で交渉を研究する方向も考えて文献検索をしてみた。そして交渉研究をしている研究者に、行動学に基づく意思決定理論の領域から出発しておられる方がかなり多いことに吃驚した。

現在では交渉研究のメッカ的存在になったハーバード大のPON (Program On Negotiation)を訪問した時、案内してくださり、いろいろとお話をしてくださったルービン先生は心理学から交渉学へと進まれた方であった。沢登りが趣味のルービンは岩から落ちて亡くなられた。50代半ばのことであり、今でも残念な思いである。

『交渉の認知心理学』の著者であるベイザーマンやニールも心理学畑の出身であり、今では交渉学の領域で名をなしている。そのほかにも、行動学の視点から意思決定の問題に取り組んでいる研究者を多数擁立しているのはペンシルバニア大のウォートンスクールやシカゴ大のビジネススクール、またそれを交渉学に特化させているノースウェスタン大学のケロッグ・ビジネススクールと付属のDRRC である。

人間行動である限り、意思決定や交渉だけでなく、金融や財政の問題もかつての経済学だけで考えることが難しくなり、行動経済学のアプローチから新領域が開拓されているようである。しかし、そこに心理的な側面をどれくらい組み込んで考えるのがよいのか、となると判断は難しい。枠組みとしてはハードな経済学や経営学の枠組みを据えて、それを保持しながら、新たに行動学の成果を組み込みながら進めていく。いずれはその流れが経済学に深く浸透するのではないか、と考える次第である。

土居 弘元氏

国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る

【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004

その他のレクチャー

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北東に進路をとれ

「北北西に進路をとれ」(North by Northwest) はヒッチコック監督作品の映画で。とうもろこし畑の中を、防虫剤散布用の軽飛行機による追跡を逃れて逃げ回るシーンや、ラシュモアにある4人の大統領の顔が刻まれた岩壁を滑り落ちそうになるシーンが思い出される。

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FOTEについて

理論を構築しようとするとき、直面している現実にだけ目を向けて対象とするものを描写するのは適切ではない。特に社会現象に関する場合は、「どのような前提に立って論理を組み立てるのか」を明確にしておかなければならない。そうでないと、その論理の展開と現実の違いが認識できず、論理を否定することの危うさが生じる。

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「交渉学原論」について思う

社会科学といわれる諸科学では、その科学の基礎となる論理を示す原論と言われる科目が講じられている。経済学原論とか経営学原理、会計学原理、マーケティング原理、等々といった科目がそれで、これらは経済学部、商学部、経営学部では必修科目であり、学生時代に受講した経験をお持ちの方も多いことだと思う。

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リーダー、時間、信頼

2月末日、私が住むマンションの建て替え組合の解散総会が行われた。2014年6月に、10年ぶりに元住戸に引っ越しをすることができたため、住民が作っていた建て替え組合を解散することになったのである。建て替えに至った経緯、時間の流れ、多数住民のいるマンション、それは長期の交渉となり、面白い事例である。しかし、詳細に語ることは禁じられているため難しい。ただ、そこに至る人の考え、10年にわたる時間の流れという要因、代表となる人の熱意、住民間に築き上げられた信頼関係とその維持、等々、これらは交渉を考える時に重要な要因であるとしみじみ思うので語ってみたい。

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交渉学に思う

交渉を専門の授業科目として作り、担当したのは1998年だったと記憶している。経営学の領域で上級の科目にして、タイトルは「交渉行動と意思決定」とした。その頃まで研究の中心は決定分析であったのでいくらか違和感を覚えたが、ライファ先生の著書“Art & Science of Negotiation”を読みながら決定分析が交渉に適合できることを確認し教材を考えた。

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win-winという考え

「交渉とは相手方からできるだけ多くの物を得ることである」と考える人が多いのではないかと思う。
「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。

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鳥瞰図を描く

民謡だと思うが次のような一節がある。
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」

字義どおりに解釈すれば、「季節は夏、高い所に立って、そこから下の畑を見下ろしたなら、そこには瓜や茄子の花が咲いているのがよく見える」ということであろう。「鳥瞰する」ということの意味がよく理解できる一節だと思う。

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BATNA (Best No Deal Option)

交渉をして問題解決を図ろうとする人の目的は相手方と合意をすることにある。合意を目指しての人間行動を対象として展開するのが交渉理論である。しかし、合意に至ることができない交渉もまたいろいろとある。また、この条件では合意したくないという思いに至ることもある。そのような事態になると合意を避けて交渉のテーブルから去る、という手段がとられる。このテーブルから去るという行為を現実に行うのではなく、「こういう事態では合意することはできませんね」という態度を暗黙に示すことも交渉の技術である。その、ほかにも案を持っていますよという案を代替案(alternatives)といい、そのうちで合意案と満足度が近い最善のものをBATNAという。

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「主観である」ことが

人は客観的であるということを是とし、主観的であるということについては「個人的な意見に過ぎない」と思いがちである。客観的に示すことができる「長さ・重さ」のようなものは、対象を比較しどちらが大きいかというような検討をすることが可能である。しかし、客観的に示すことができない対象に対しても「これは好ましい」とか「これはどうもダメだな」という評価をするのが私たちの日常ではないかな、と私は思う。満足水準という考え方で判断するなら至極当然なことなのだから。ゆえに、主観を客観化することは大切なことなのである。

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「関心」について

人は「関心(interests)」を持つ物に対して目を向ける。何も関心がない物に対しては知らぬ顔をして通り過ぎる。関心が強くなると「欲しい」「手に入れたい」「自分の物にしたい」という気持ちが高じてくる。お金を出せば手に入れることができる物なら何とかして手に入れたい、という気持ちになってくる。高級品店が繁盛するのはこのような人が多いことの証である。

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行動科学

経済学の領域で「行動経済学」が広く認識され始めている。きっかけとなったのは2002年にノーベル経済学賞をカーネマン教授が受賞したことによる。2000年頃はカーネマンの名前を知っている日本の経済学者は少数派ではなかっただろうか。その研究は、認知心理学の応用として合理的な選択を人はするものだろうか、について考えるものであった。いわゆる実験によって実証するという心理学の方法を適用するものである。同じ認知心理学の研究者であるトヴェルスキーと共同研究をし、論文も共著として相当数発表しておられた。

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天動説と地動説

天動説とは「地球は宇宙の中心にあって静止している。そして太陽、月、星が地球の周りを回っている」という考え方であり、17世紀頃までは支配的な宇宙観であった。それに対して「地球や他の惑星が太陽の周りを回っている」という考え方が18世紀以降になって有力になってくる。これが地動説である。ガリレオは地動説の考えを放棄するよう迫られそれを認めたが、「それでも地球は動いている」とその後でつぶやいた、といわれている。