土居弘元先生による交渉学Web講座

BATNA (Best No Deal Option)

NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元

交渉をして問題解決を図ろうとする人の目的は相手方と合意をすることにある。合意を目指しての人間行動を対象として展開するのが交渉理論である。しかし、合意に至ることができない交渉もまたいろいろとある。また、この条件では合意したくないという思いに至ることもある。そのような事態になると合意を避けて交渉のテーブルから去る、という手段がとられる。このテーブルから去るという行為を現実に行うのではなく、「こういう事態では合意することはできませんね」という態度を暗黙に示すことも交渉の技術である。その、ほかにも案を持っていますよという案を代替案(alternatives)といい、そのうちで合意案と満足度が近い最善のものをBATNAという。

Best Alternative to a Negotiated Agreement の頭字語であり、フィッシャー、ユーリー、パットン三氏の『Getting to Yes(邦文タイトル:ハーバード流交渉術)』で示された名称である。現在では交渉を学ぶ人にこの語を知らない人はいないと思われるほど有名になった。もっとも、この語を聞いてその意味を理解することは難しいことがある。そこで、ラックス・セベニウスの両氏は「最善のノーディール・オプション(best no deal option)と呼んでいる。最初からこれが最善の代替の案ですよ、ということが明確であることは珍しいことである。そこで、話し合いの場から去ってしまうという案を「ノーディール・オプション」と呼び、そのうちで最もよい案と考えられるものを「ベスト・ノーディール・オプション」と呼ぶのである。これがラックス・セベニウス両氏の真意ではないかと思う。ここでは両氏に見倣ってディール、ノーディールという言い方で話を進めていく。

ノーディール・オプション、これを持つことの意味は、「もしこの申し出が上手くいかないなら、私は別の方策を考えますよ」ということにある。俗な言葉でいうなら、「これでダメならこの話はおしまいだ」ということである。その時、別の選択肢が何であるのかは明示することもあるし、黙っていることもある。それは当事者のやり方次第、ということができる。それでは、これを持つことによって交渉の何が変わるのだろうか。「この交渉を打ち切ってもいいのだよ」という態度を示す。これは相手方に対する当方の立場を強くすることになる。「イエスに到達する(getting to yes)」でない方がよい場合もあるのだ。それは相手方に対してもいえることである。

ノーディール・オプションに関して現実的な見極めをすることが大半の交渉において合意が得られるかどうかの鍵となるのである。有力なノーディール・オプションを持つことは、そちらを選ぶこともできるし、それを明示していればそれを選ぶ意思もあるのだよ、ということを態度で示すことでもある。

ノーディール・オプションを選択することによって交渉はどのように変わるのであろうか。まず考えられることとして、単純に交渉を打ち切ってこの交渉は終わり、とするだけの場合がある。しかしそれで話は終わりという場合は少ない。ほかに、取引相手として別の業者を選ぶこともある。外部委託して生産していたものを内製化する、ということもある。和解の話し合いをしていた件を裁判で争うという態度に変えることもある。あらゆる交渉において、自分のノーディール・オプションを正確に見極めることで、極めて重要な基準の設定に役立つ。「…と比べて」という基準である。それらのうち最も好ましい案がベスト・ノーディール・オプションである。それは相手方も当然持っていると考えてよい。また相手方もどのような形でそれを使おうとするのか、その行動についても推測しなければならないことなのである。

ノーディール・オプションの力を生かす方法としてラックス・セベニウス両氏は次の五つを挙げている。

  1. 当方と相手方の「最善のノーディール・オプション」から合意の可能領域(ZOPA)を割り出すことが可能である。
  2. 交渉を打ち切る意思もあるしその力も持っているということを相手方に知らせることになる。相手方がその意図を知り、現実性を十分に認識し受け止めるなら、状況は当方にとって有利な方へと傾く。また、相手方の「最善のノーディール・オプション」を知り、それ以上のものとなる提案をすれば当方の提案を相手方は飲まざるを得なくなる。
  3. 当方の持つノーディール・オプションを維持する。注意不足で弱めてしまわないようにする(無言の圧力の働きをする)。
  4. 一定の条件を満たす状況を想定した上で、当方のノーディール・オプションをあえて弱める方法も検討しておく(背水の陣に身を置いて対応する方法を検討する意味である)。
  5. 交渉に臨むべきかどうかを判断する際、ノーディール・オプションを見極めたうえで交渉が主導的な役割を果たすことができる状況とそうではない状況とを区別する(交渉の意味がない場合もあることを見極める、ということである)。

ノーディール・オプションは交渉のあらゆる段階で大きい力を発揮する。交渉に当たって「ディール/ノーディール」のバランスを考えることは、テーブルに臨む前に検討する重要な課題といえる。

土居 弘元氏

国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る

【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004

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北東に進路をとれ

「北北西に進路をとれ」(North by Northwest) はヒッチコック監督作品の映画で。とうもろこし畑の中を、防虫剤散布用の軽飛行機による追跡を逃れて逃げ回るシーンや、ラシュモアにある4人の大統領の顔が刻まれた岩壁を滑り落ちそうになるシーンが思い出される。

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FOTEについて

理論を構築しようとするとき、直面している現実にだけ目を向けて対象とするものを描写するのは適切ではない。特に社会現象に関する場合は、「どのような前提に立って論理を組み立てるのか」を明確にしておかなければならない。そうでないと、その論理の展開と現実の違いが認識できず、論理を否定することの危うさが生じる。

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「交渉学原論」について思う

社会科学といわれる諸科学では、その科学の基礎となる論理を示す原論と言われる科目が講じられている。経済学原論とか経営学原理、会計学原理、マーケティング原理、等々といった科目がそれで、これらは経済学部、商学部、経営学部では必修科目であり、学生時代に受講した経験をお持ちの方も多いことだと思う。

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リーダー、時間、信頼

2月末日、私が住むマンションの建て替え組合の解散総会が行われた。2014年6月に、10年ぶりに元住戸に引っ越しをすることができたため、住民が作っていた建て替え組合を解散することになったのである。建て替えに至った経緯、時間の流れ、多数住民のいるマンション、それは長期の交渉となり、面白い事例である。しかし、詳細に語ることは禁じられているため難しい。ただ、そこに至る人の考え、10年にわたる時間の流れという要因、代表となる人の熱意、住民間に築き上げられた信頼関係とその維持、等々、これらは交渉を考える時に重要な要因であるとしみじみ思うので語ってみたい。

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交渉学に思う

交渉を専門の授業科目として作り、担当したのは1998年だったと記憶している。経営学の領域で上級の科目にして、タイトルは「交渉行動と意思決定」とした。その頃まで研究の中心は決定分析であったのでいくらか違和感を覚えたが、ライファ先生の著書“Art & Science of Negotiation”を読みながら決定分析が交渉に適合できることを確認し教材を考えた。

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win-winという考え

「交渉とは相手方からできるだけ多くの物を得ることである」と考える人が多いのではないかと思う。
「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。

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鳥瞰図を描く

民謡だと思うが次のような一節がある。
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」

字義どおりに解釈すれば、「季節は夏、高い所に立って、そこから下の畑を見下ろしたなら、そこには瓜や茄子の花が咲いているのがよく見える」ということであろう。「鳥瞰する」ということの意味がよく理解できる一節だと思う。

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「主観である」ことが

人は客観的であるということを是とし、主観的であるということについては「個人的な意見に過ぎない」と思いがちである。客観的に示すことができる「長さ・重さ」のようなものは、対象を比較しどちらが大きいかというような検討をすることが可能である。しかし、客観的に示すことができない対象に対しても「これは好ましい」とか「これはどうもダメだな」という評価をするのが私たちの日常ではないかな、と私は思う。満足水準という考え方で判断するなら至極当然なことなのだから。ゆえに、主観を客観化することは大切なことなのである。

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「関心」について

人は「関心(interests)」を持つ物に対して目を向ける。何も関心がない物に対しては知らぬ顔をして通り過ぎる。関心が強くなると「欲しい」「手に入れたい」「自分の物にしたい」という気持ちが高じてくる。お金を出せば手に入れることができる物なら何とかして手に入れたい、という気持ちになってくる。高級品店が繁盛するのはこのような人が多いことの証である。

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行動科学

経済学の領域で「行動経済学」が広く認識され始めている。きっかけとなったのは2002年にノーベル経済学賞をカーネマン教授が受賞したことによる。2000年頃はカーネマンの名前を知っている日本の経済学者は少数派ではなかっただろうか。その研究は、認知心理学の応用として合理的な選択を人はするものだろうか、について考えるものであった。いわゆる実験によって実証するという心理学の方法を適用するものである。同じ認知心理学の研究者であるトヴェルスキーと共同研究をし、論文も共著として相当数発表しておられた。

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天動説と地動説

天動説とは「地球は宇宙の中心にあって静止している。そして太陽、月、星が地球の周りを回っている」という考え方であり、17世紀頃までは支配的な宇宙観であった。それに対して「地球や他の惑星が太陽の周りを回っている」という考え方が18世紀以降になって有力になってくる。これが地動説である。ガリレオは地動説の考えを放棄するよう迫られそれを認めたが、「それでも地球は動いている」とその後でつぶやいた、といわれている。