win-winという考え
NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元
「交渉とは相手方からできるだけ多くの物を得ることである」と考える人が多いのではないかと思う。
「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。1回限りで、事情が事情という内容であるから、学生の態度は受け入れられる。そして、その結果を基に議論しながら、最初の提示や留保値の話をし、ZOPAという領域の話をし、合意できなければBATNAという考えに基づく行動もとり得ることを話す。ただ、「こちらからはできるだけ出さない。しかし相手からはできるだけ多くを得る」という考えでは良好な関係を求める交渉を長く続けるのは難しいよ、と話を続けていったものである。これは分配型の交渉でwin-loseの典型的なものであり、結果は「勝った」「負けた」という気分になる。
従来、交渉はこのwin-loseが当然であり、できるだけ多くを得るように行うことである、と考えられていた。その意味では競争的なスポーツと同様に見られていたし、また現在もそう考える人はかなり多くいると思われる。スポーツの世界では結果を点数で評価し、その数値で勝ち負けが決まる。野球では1対0とか18対3という形式で結果を示し、点数を多くとったチームを勝ちとする。バスケットボールではさらに大きい点数となり102対99という形になることもある。そして両者が同点でない限り、1点でも多くとっているならそのチームを勝ちとするのである。
交渉ではこのように点数化することは難しい。取引をお金で行い、それ以外の要因を加味せずに結果をただ金銭表示で行うならスポーツ的と見ることができる。その場合、小さい値なら勝ち負けの感情が大きく湧くことはないと思われる。ただ純粋に分配型の交渉であるなら、スポーツ的な感情をもつことがあってもおかしくはない。「交渉名人」と自称する人がサマルカンドのモスク前でお土産を値切る話を以前書いたが、この人の交渉に関する感覚もスポーツ的であると思う。
交渉がこのようにスポーツ的なものであると認識されているなら、「この交渉は絶対に勝たねばならない。そのためには…」という形で気分が高揚することになる。気分が高揚することは悪いことではないが、「何が何でも…」という思いで突き進むことは困るのである。それを避け、「共に問題を考えましょう」「いくつかの要因で考えましょう」という形で交渉をするというスタイルが代わって提示されてきた。これがwin-winの交渉スタイルである。このスタイルが提唱されたのは1970年代になってからである。フィッシャー、ユーリー、パットンの著書『ハーバード流交渉術』で初めて提唱されたそうである。この考えによって交渉の任に当たる人は気分的に楽になったとのことである。勝ち負けを眼目とする交渉なら負けることは困る。交渉の任に当たる人の責任は重大である。しかし、妥協し双方がいろいろな要因を加味し、それぞれが良いと思われる結果をもたらすならそれで良いのだ、という考えになれば担当者の覚悟は変わってくる。負ければ切腹というような切迫感はなくなるからである。また、相互にいろいろな提案をすることが可能になってくる。win-winという考え方は交渉による勝ち負けという一喜一憂の心配を押し流した、という意味のことをハーバード・ビジネス・スクールで交渉を教えているウィーラー教授はその著『Art of Nego-
tiation』で述べておられる。
日本でもこれと同様な経営思想はあり、日本的経営のバックボーンでもあるといえる。それは近江商人の経営哲学である「三方良し」の思想である。三方とは「買い手」「売り手」そして「世間」をいう。交渉という観点からいうなら、「買い手はそれを買って良かった」と思い、「売り手も売って良かったな」と満足する。そして「世間の人もそれを見て良かった」、と満足の目で眺めることである。これは日本的経営の誇るべき思想であり、win-winの考えが実践されていた例といえるのではないだろうか。
筆者は、交渉は「君にも良けれ。我にも良けれ。できれば我にチョッピリ良けれ」が理想の結果であると考えており、学会での報告でも引用したことがある。これはパレート・フロンティアの上であっても、相当狭い範囲の領域を指している。そこがwin-winを充たしている、という意味である。
ところがマサチューセッツ工科大学のサスカインド教授が最近出版された著書を見て吃驚してしまった。その著のタイトルは『Good for You, Great for Me : Finding the Trading Zone and Winning at Win-Win Negotiation』である。「あなたにとって良い、私にとってグーンと良い:そしてやり取りをする範囲を見つけて、win-win 交渉を行ってwinすること」というのである。何か交渉に対する私の考え方と似ているタイトルである。違いはyouに対してはgood、meに対してはgreatがサスカインド先生の主張である。「チョッピリ良けれ」はgreatかな? と感じる。
サスカインド先生はPON(The Program on Nego-
tiation at Harvard Law School)のリーダーの一人であり、合意形成をいかに図るかの重要性を追い求めている交渉学研究第1人者である。機会を見てその著書で述べている考え方を報告したいと思っている。
土居 弘元氏
国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る
【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004
その他のレクチャー
土居弘元先生による交渉学Web講座
土居弘元先生による交渉学Web講座
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「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。