土居弘元先生による交渉学Web講座

FOTEについて

NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元

理論を構築しようとするとき、直面している現実にだけ目を向けて対象とするものを描写するのは適切ではない。特に社会現象に関する場合は、「どのような前提に立って論理を組み立てるのか」を明確にしておかなければならない。そうでないと、その論理の展開と現実の違いが認識できず、論理を否定することの危うさが生じる。

例えば「経済理論」では「経済人」を想定して理論を組み立てる。経済人という語は一般的には「財界・経済界で活躍している人」を指す言葉であるが、経済学ではホモ・エコノミクスをいう。ホモ・エコノミクスは経済的に有利な動機でしか行動しない、と想定される人である。例えば、隣の店で1個100円で売られている物と同じ製品が1丁目先の店で10パーセント引きの価格で売られているなら、取るものも取りあえずそちらに買いに行く。このように経済的動機のみで行動する人を想定してホモ・エコノミクスという。これに対して心理学者が問いかけの実験を行った。まず、「1丁目先の店で、ここにあるのと同じ5ドルの電卓が10パーセント引きで売られているならそちらに買いに行きますか」と問いかけた。ハイと答える人は非常に少数であった。次いで、「1丁目先の店で300ドルのパソコンが10パーセント引きで売られているならそちらに買いに行きますか」という問いには、半数以上がそちらに行くことを厭わないと答えたそうである。「1ドルでも安い方を買う」というのが経済人(ホモ・エコノミクス)という想定は実際行動によって否定されるのである。実際の人間行動を実験によって実証し、結果として誕生したのが行動経済学である。しかし実際の人間行動は「このような行動をとりがちである」としか言えないことであるため、1つの体系的な理論の柱とすることはできない。経済学原論ではホモ・エコノミクスを核とした理論が展開され、ホモ・エコノミクスであるなら「このように行動する」という論理を構築する。

それでは交渉学はどのような人間像を考えているのであろうか。交渉は術(art〉と考えられ、理論としての論理追及を試みているのは少数の人のように思われる。その1人がRaiffa先生であり、その考えはLectures on Negotiation AnalysisやNegotiation Analysisに於いて示されている。それらの書では、交渉で考えられる究極の対話はFOTEで行われると想定して論が進められる。FOTEとはFull Open Truthful Exchangeの頭韻であり、その意味するところは「「思っているところの事は全てオープンに述べて、真実の意見交換をする」ということである。これはホモ・エコノミクスとほぼ同じ考え方の交渉学におけるコミュニケーションの人間観である、といえるものである。ただ、この考え方は「経済人」とは幾分異なり、現実に近い考え方の人間像ではないかと思われる。実際の人間が「思っていることを全てオープンに述べ、真実の意見交換をすることができるのか」と問われると、人は「全てをオープンにして真実を語り得るのかな」と思い、「チョッと無理ではないかな」と考え込んでしまうかも知れない。しかし、それは究極の場合であり、交渉の対話はまずFOTEで行われる、ということで話を始めてみよう。それは「完全に述べて、真実を語る」というやり方で対応するなら、そこから始まり、行き着く先をはっきりと示し得るという考えに基づいている。「しかし、本当にFOTEで行われるコミュニケーションがあり得るだろうか」という問いに対して、次のようなものがFOTEで行われている、とRaiffa先生は例を示される。

・夫婦間の対話 Raiffa先生ご夫妻間の交渉はすべてFOTEでなされている。だからこそ50年以上の長きにわたって円満な生活が送られているのだ、とのことである。ただ「おかしいな」と思うのは奥様が「チキンの焦げた部分が好き」ということである。きっとRaiffa先生が焦げていない部分が好きだということを知っているからだろうと思っている。
・仕事の仲間は「そうやります」という。それは自身の信念の一部であると思う。もしお互いが嘘をつき始めたら仲間の結びつきは崩れてしまうことになる。
・HBSの交渉の授業でライファ先生の交渉の授業中、はじめはお互いにだまし合うシーンが見られるが時間が経つにつれて原則に沿った交渉を始めるようになる。

このような例示をし、FOTEが必ずしも無理なことではないと述べている。実際、思っていることを完全に公開しているかどうかが分かるのは本人しかないから、発言していることに「それで全てか(full open)か」と確かめることは難しい。しかし、だまし合うという行為を続けることは正常な関係の間ではできない行為である。論理の究極の姿として経済学で考える人間像の「経済人(ホモ・エコノミクス)」のようにコミュニケーションの姿としてFOTEを考えて分析をし、交渉の準備に当たるのが1つの考え方ではないかと考える。

土居 弘元氏

国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る

【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004

その他のレクチャー

土居弘元先生による交渉学Web講座

北東に進路をとれ

「北北西に進路をとれ」(North by Northwest) はヒッチコック監督作品の映画で。とうもろこし畑の中を、防虫剤散布用の軽飛行機による追跡を逃れて逃げ回るシーンや、ラシュモアにある4人の大統領の顔が刻まれた岩壁を滑り落ちそうになるシーンが思い出される。

土居弘元先生による交渉学Web講座

FOTEについて

理論を構築しようとするとき、直面している現実にだけ目を向けて対象とするものを描写するのは適切ではない。特に社会現象に関する場合は、「どのような前提に立って論理を組み立てるのか」を明確にしておかなければならない。そうでないと、その論理の展開と現実の違いが認識できず、論理を否定することの危うさが生じる。

土居弘元先生による交渉学Web講座

「交渉学原論」について思う

社会科学といわれる諸科学では、その科学の基礎となる論理を示す原論と言われる科目が講じられている。経済学原論とか経営学原理、会計学原理、マーケティング原理、等々といった科目がそれで、これらは経済学部、商学部、経営学部では必修科目であり、学生時代に受講した経験をお持ちの方も多いことだと思う。

土居弘元先生による交渉学Web講座

リーダー、時間、信頼

2月末日、私が住むマンションの建て替え組合の解散総会が行われた。2014年6月に、10年ぶりに元住戸に引っ越しをすることができたため、住民が作っていた建て替え組合を解散することになったのである。建て替えに至った経緯、時間の流れ、多数住民のいるマンション、それは長期の交渉となり、面白い事例である。しかし、詳細に語ることは禁じられているため難しい。ただ、そこに至る人の考え、10年にわたる時間の流れという要因、代表となる人の熱意、住民間に築き上げられた信頼関係とその維持、等々、これらは交渉を考える時に重要な要因であるとしみじみ思うので語ってみたい。

土居弘元先生による交渉学Web講座

交渉学に思う

交渉を専門の授業科目として作り、担当したのは1998年だったと記憶している。経営学の領域で上級の科目にして、タイトルは「交渉行動と意思決定」とした。その頃まで研究の中心は決定分析であったのでいくらか違和感を覚えたが、ライファ先生の著書“Art & Science of Negotiation”を読みながら決定分析が交渉に適合できることを確認し教材を考えた。

土居弘元先生による交渉学Web講座

win-winという考え

「交渉とは相手方からできるだけ多くの物を得ることである」と考える人が多いのではないかと思う。
「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。

土居弘元先生による交渉学Web講座

鳥瞰図を描く

民謡だと思うが次のような一節がある。
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」

字義どおりに解釈すれば、「季節は夏、高い所に立って、そこから下の畑を見下ろしたなら、そこには瓜や茄子の花が咲いているのがよく見える」ということであろう。「鳥瞰する」ということの意味がよく理解できる一節だと思う。

土居弘元先生による交渉学Web講座

BATNA (Best No Deal Option)

交渉をして問題解決を図ろうとする人の目的は相手方と合意をすることにある。合意を目指しての人間行動を対象として展開するのが交渉理論である。しかし、合意に至ることができない交渉もまたいろいろとある。また、この条件では合意したくないという思いに至ることもある。そのような事態になると合意を避けて交渉のテーブルから去る、という手段がとられる。このテーブルから去るという行為を現実に行うのではなく、「こういう事態では合意することはできませんね」という態度を暗黙に示すことも交渉の技術である。その、ほかにも案を持っていますよという案を代替案(alternatives)といい、そのうちで合意案と満足度が近い最善のものをBATNAという。

土居弘元先生による交渉学Web講座

「主観である」ことが

人は客観的であるということを是とし、主観的であるということについては「個人的な意見に過ぎない」と思いがちである。客観的に示すことができる「長さ・重さ」のようなものは、対象を比較しどちらが大きいかというような検討をすることが可能である。しかし、客観的に示すことができない対象に対しても「これは好ましい」とか「これはどうもダメだな」という評価をするのが私たちの日常ではないかな、と私は思う。満足水準という考え方で判断するなら至極当然なことなのだから。ゆえに、主観を客観化することは大切なことなのである。

土居弘元先生による交渉学Web講座

「関心」について

人は「関心(interests)」を持つ物に対して目を向ける。何も関心がない物に対しては知らぬ顔をして通り過ぎる。関心が強くなると「欲しい」「手に入れたい」「自分の物にしたい」という気持ちが高じてくる。お金を出せば手に入れることができる物なら何とかして手に入れたい、という気持ちになってくる。高級品店が繁盛するのはこのような人が多いことの証である。

土居弘元先生による交渉学Web講座

行動科学

経済学の領域で「行動経済学」が広く認識され始めている。きっかけとなったのは2002年にノーベル経済学賞をカーネマン教授が受賞したことによる。2000年頃はカーネマンの名前を知っている日本の経済学者は少数派ではなかっただろうか。その研究は、認知心理学の応用として合理的な選択を人はするものだろうか、について考えるものであった。いわゆる実験によって実証するという心理学の方法を適用するものである。同じ認知心理学の研究者であるトヴェルスキーと共同研究をし、論文も共著として相当数発表しておられた。

土居弘元先生による交渉学Web講座

天動説と地動説

天動説とは「地球は宇宙の中心にあって静止している。そして太陽、月、星が地球の周りを回っている」という考え方であり、17世紀頃までは支配的な宇宙観であった。それに対して「地球や他の惑星が太陽の周りを回っている」という考え方が18世紀以降になって有力になってくる。これが地動説である。ガリレオは地動説の考えを放棄するよう迫られそれを認めたが、「それでも地球は動いている」とその後でつぶやいた、といわれている。