問題と解答
NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元
「問題と解答」という語からどのようなイメージを描くだろうか。私はなぜか高校時代までの数学を思い浮かべてしまう。問題に対し正解は必ず一つある。それは中学校までの数学である。しかし高校時代の数学では「解なし」という場合も、「不定」という答えもありということを習った。そのあたりで問題に対して正解は一つという思いが変わってきた。また、受験に失敗して予備校に通った時のことである。数学のユニークで素晴らしい授業に魅かれた。「解法の探求」というその授業は、1時間で一つの問題をジックリといろいろな側面から考えるものだった。そして解に到達する方法を考えてその長短を示す。解に至る道は一つではなくいくつかあることを示し、そのうちから最も好ましい解法を見出すというスタイルだった。高校教育までは、問題は与えられるもの、解答はそれに対して作るもの、という方法のトレーニングが行われていた。それはそれで必要だな、と懐かしく思う。
その後、社会科学と呼ばれる領域で学ぶことになった。そこでの講義は教師の話を聞くという一方通行型が普通だった。だから試験は問題が与えられて、それに対して、講義の間に習い記憶した知識を、いくらか応用して解答に示すという形で行われるものだった。「ヤマカンでどこが出そうか」を推測することもした。大学時代の話である。今はどう変化しているだろうか。ただ、ゼミにおける卒業論文だけは「問題意識を持って、それに対する解を自分で考える」というスタイルが求められた。これは大きい変化だった。その行き方に最初は戸惑いを感じたものだ。しかし、それが当たり前のことであるとその後は感じるようになり、今に至っている。個人的経験を述べたが、小学校に入り大学を卒業するくらいまで、たいていは「問題は与えられる」そして「解答は理解・記憶力を試す形で示すもの」というのが一般に共通して理解されていることのように思うのである。
それでは社会ではどのようなことが問題と考えられるのだろうか。一般的な形で述べるなら「定常状態からどれくらい離れているか」が問題になると私は思っている。この定常状態とは客観的な形で示されるものから主観的なものまでさまざまだ。例えば人間の体について考えてみよう。健康な日本人の体温は36~37度くらいだろうか。その範囲を超していると「何か体が熱っぽいな」という感じがしてくる。問題になるのだ。38度を超したら熱っぽくてやる気が起こらず、「風邪かな」と薬を飲むようになる。客観化するには統計的に計測し、「普通の人間ならこれくらい」という枠を作る。健康と思われ、表面的に異常のない人の標準枠を作り、そこからどれくらい外れているかをチェックし、健康度を測るのだ。それを体系化したものが人間ドックのような健康診断である。その方法で人の「健康の問題」に対する差異度を計り、解答を与えるのだ。人体については大数観測によって平均が求められる。またそれぞれ病理的検査の結果で望ましい数値が統計的に集められている。それを基準として枠を作ることができるのだ。
社会現象に関してもそのような方法は可能なのだろうか。これに関してはかなり主観的な形で論じられるように思う。一応、政策を担当する人は枠を持っているはずである。しかし、それを基にして問題解決が図られるとは限らない。例えば、次のような問題についてあなたならどう考え、解を用意するだろうか?
問1
「日本の財政における国債依存度の現状は定常状態だろうか?」
これに関しては様々な条件付きで経済学者がそれぞれの考えに応じた解答を用意しているようだ。日本の歳入は歳出の約半分を超えるくらいである。この状態で予算を組むことが相当長く続いたため1,000兆円を超える国債累積残高になっている。これを定常状態と考えるのは苦しいかな、と私は思う。いかに返済するのか、を考えることは重要なことである。皆さんならどのように判断して、どのような解答を用意するだろうか。室町時代のように徳政令で一気に債権放棄(債務免除)を命じるのは無理だと思うが、それも一つの解である。薩摩藩の調所広郷の行ったような250年返済案も一つの解決案候補である。ただ、実行が可能かどうかは疑問であるし、考えれば考えるほど難しい問題だなという気がしてくる。しかし誰かが解答を用意してそれを実行しなければならない。その日が来るはずだ。
問2
「会社が他の会社と事業統合をすることについてどう考えるか?」
今は何とかやっていける状況であるが3年先に業界は厳しい状況と予測されている事業を抱えている会社はあるだろう。これは、近い将来に定常状態から外れる事業の経営戦略に関する問題である。その事業を廃止してしまうということも解の一つに考えられるし、他の会社と事業統合を図ろうとするのも解の一つになると思う。いろいろな解答を用意して検討し、最も良いと思う案を実行に移す。それが事業を経営する者の責務だと思う。この問題についても解答を作るのは大変なことである。人はそれぞれ自分の所属する部門に忠誠心を持っていて、全体の視点から物を見ることは難しいからだ。一つの変革の難しさの例である。
2例とも外から見ていると何の変哲もない普通の状態に見えるかもしれない。しかし、よく考えると定常状態とは言えない。大問題に対する解を考えなければならないのだ。いずれも解を作ったならそれを実行しなければならない。その実行は個で行うことが難しいものばかりになるだろう。そういった実行に関して、適切な相手を探し出して恊働することが必要となるのだ。自己の関心ばかりでなく恊働で事を成就しようとする者と関心を合わせて、共に作り上げるという交渉の考え方で臨む態度を持つことが重要なのだ。
土居 弘元氏
国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る
【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004
その他のレクチャー
土居弘元先生による交渉学Web講座
土居弘元先生による交渉学Web講座
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「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。