土居弘元先生による交渉学Web講座

アナトミー

NPO法人日本交渉協会副理事長 土居弘元

アナトミー(anatomy)。日本語で「解剖、または解剖学」のことである。普通は医学や生物系に関連している用語である。解剖学は医学部の学生にとって最初に習得しなければならない必修の基礎科目である。だから医学部では誰もが一生懸命に学び、この科目を十分に習得する。そしてそれを基に専門とする科目へ進んでいく。そういう風に考えて不思議はないが、それには「?」がつく。実際にはそうでもないようであるが実体は「?」である。杉田玄白や前野良沢がオランダ語の著書「ターヘル・アナトミア」を「解体新書」と訳して著した頃の医師は解剖学に目を見張り、蘭方医となることに夢を膨らませた人が相当にいたことであろう。その頃なら人間の骨格構造や人体図は珍しいものであり、解剖学への期待を抱かせるものが大きかったことと思うからである。

しかし今では小学校や中学校の理科室に骨格模型があり、人体図は理科の教科書に載っている。医者としてやっていこうとする学生が初めて学ぶ解剖学に胸躍らせて、その学習に懸命になるとは想像し難い。「解剖学は医学を修得するための最初に学ぶ重要な必修科目」であることは真である。医学は人間の体を対象とする学問だから当然といえよう。人間の体がどのような構造であるのかを骨格、筋肉、臓器、神経系統、等にわたってまず理解しておく。それがすべての基本になるからだと考える。

余談になるが、TVのクイズ番組「総合診療医ドクターG」をご存知の方は多いと思う。熟練を積んだ活躍中の総合診療医が出題し、3名の若い研修医がビデオで放映される状況から病名を診断して当てるという医療クイズ番組である。総合診療医に対して、「肩が痛い」とか「体のだるいのが抜けない」とかといった一般的な苦痛を主訴とする患者の病名を探り、それを当てるのである。主訴に対して診断した状況をビデオで再現し、それを見た研修医が病名を推論して当てる、という形で番組は進められる。一度で正解に達することはない。このプロセスが3回くらい繰り返され、解答者が真の病名に到達する姿が描き出されるのである。主訴からは考え出すことが難しい難病が取り上げられる。病名を当てるのであるからやさしく即座に病名に到達するような診断ができるものでないことは想像できる。またそのような病気に誰もがいつも罹るものでもないとも思う。

例えば次のような形である。50歳前後で「肩の辺りが痛い」という主訴であれば普通は50肩を想定するであろう。しかしそれがSAPHO症候群(サホーしょうこうぐん)であることに、症状に関する情報を追って到達する。風邪のような症状が出るが、市販の風邪薬は効かない。手足の関節の痛みに加えて胸の辺りの痛みも出てくる。そのような主訴に対して、状況と症状の部位から再発性多発欠骨炎という病名が引き出される。出題者と解答者の、解を引き出すプロセスのやり取りもおもしろい。

その病名にたどり着くプロセスは解剖学の知識を基礎にして、現代の病理知識の推論によって進められているように私には見える。若い研修医もやはり解剖学の知識を基にいろいろと考え判断し、熟達した医師の示唆によってそれぞれが持っている知見から推論を進めていく。そして最後には正解が導き出されていくという形の構成である。医学を志す者はすべて解剖学に通じていることが求められている、ということを見せてくれるような興味深いクイズ番組である。解剖学こそ医学をやっていこうとする全員にとっての基礎科目であるとする理由を、ここに見る思いがするのである。

人間を構成している構造要因をシステム的に捉え、それを理解し、その知識に基づいて病名に到達する。そこから治療が始まる、という考え方で医学理論は構築されているように思われる。そこで、まずは医学という領域の基本を構成する人体そのものを理解することから始めなければならない。それを理解するのが解剖学ということであると思う。

知的な体系を備えて論理的に構築されている学問は、どんな領域でもこのようなアナトミーといえる基礎体系を備え持っている、と私は考えている。基礎理論であり、それに続く応用部分の理論があるということではなく、その学問領域全体を語る構造・骨格を示し、体系の枠組みを作っている理論である。そのような理論を私はアナトミーと称するのである(アナトミーとカタカナで示すのは医学における解剖学とは異なることを示すためである。しかし医学における解剖学と同様に重要な意味を持っているものであると考え、この語を用いている)。

それぞれの学問領域は、そのアナトミー理論でその学問の全体像が示され、その体系をはっきりとさせることができる。それによってその学問自体が何を対象として、どのような動きをするのかを示し、何ができるかが明瞭になる。論理構造がどのように組み立てられているかを理解できるのである。個々の問題に対して直接に関わることはないが、一般的な形で対応している。それがアナトミーと称されるものである。

経済学を例に説明してみよう。経済学は経済現象を眺め、それが持つ意味を解明し、社会をどの方向へ進めていくかまで考える政策科学的な内容まで持っている。しかしそれは経済学における政策領域まで含めて考えての問題である。経済学のアナトミーでは特定の問題に関する説明をすることはせず、経済資源の流れを一般的な形で議論することが主な目的である。それは医学における解剖学から特定の病理の説明がなされないのと同じことなのである。そういう風に捉え考えると、経済学のアナトミーは「経済原論」といわれるマクロ経済学およびミクロ経済学になる。これら理論ではTPP問題についてもアベノミクスについても論じられることはない。しかし世間では経済学とは具体的な問題を論じることであると考えられがちであるし、そう考える人の方が多数派である。金融危機が世界経済にもたらす影響、貿易の自由化が社会をどのように変えるのか、消費税の税率アップは消費にどのように影響するのか、等を語る人は多い。また、これらについて語ることができることが経済を知っており、わかっていることである、と世間では考えがちである。

そのような考え方の下に、世界史の先生が世界史的な視点から「経済は世界史から学べ」という本を著している。これを読むと経済は世界史的に見てもっと語られるべきものであることは理解できる。しかし、そこから得られるものは「振り返って見ればすべてはっきりと見える」という世界である。「歴史は繰り返す」というから現在起こっていることと似たことが過去に起こっていることは大いにあり得る。そのような事例を歴史から学ぶことは意義があることである。しかし、必要なことは「先のことは霧の中」といわれる霧の中を推側し、理論による推論を基に政策を立案し、さらにより好ましい世界を導き出していくことではないだろうか。個々の問題を見て、アナトミーによってどう捉えるかを発見し、その解決策を考える。そういった態度で臨めることこそ重要なのではないだろうか。アナトミーを学ぶことの意義はそのようなところにある。そんな風に、私は考えるのである。経済原論が経済学部で学ぶ学生全員の必修科目である理由はここにある、と思っている。

交渉学にもアナトミーは存在する。それがどのようなものか、なぜそれを知っておくことが望ましいのか、等については次回に述べたい。

土居 弘元氏

国際基督教大学 名誉教授
特定非営利活動法人 日本交渉協会副理事長
1966.3 慶応義塾大学経済学部卒業
1968.3 慶応義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
1971.3 慶応義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
1971.4 名古屋商科大学商学部専任講師から助教授、教授へ
1983.4 杏林大学社会科学部教授
1990.4 国際基督教大学教養学部教授(社会科学科所属)
1995.4 教養学部における一般教育科目として交渉行動を担当
2007.3 国際基督教大学を定年退職(名誉教授)
2007.4 関東学園大学経済学部教授 現在に至る

【著書・論文 】
『企業戦略策定のロジック』中央経済社2002
「価値の木分析と交渉問題」“Japan Negotiation Journal”Vol.2 1991
「交渉理論における決定分析の役割」“Japan Negotiation Journal”Vol.16 2004

その他のレクチャー

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北東に進路をとれ

「北北西に進路をとれ」(North by Northwest) はヒッチコック監督作品の映画で。とうもろこし畑の中を、防虫剤散布用の軽飛行機による追跡を逃れて逃げ回るシーンや、ラシュモアにある4人の大統領の顔が刻まれた岩壁を滑り落ちそうになるシーンが思い出される。

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FOTEについて

理論を構築しようとするとき、直面している現実にだけ目を向けて対象とするものを描写するのは適切ではない。特に社会現象に関する場合は、「どのような前提に立って論理を組み立てるのか」を明確にしておかなければならない。そうでないと、その論理の展開と現実の違いが認識できず、論理を否定することの危うさが生じる。

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「交渉学原論」について思う

社会科学といわれる諸科学では、その科学の基礎となる論理を示す原論と言われる科目が講じられている。経済学原論とか経営学原理、会計学原理、マーケティング原理、等々といった科目がそれで、これらは経済学部、商学部、経営学部では必修科目であり、学生時代に受講した経験をお持ちの方も多いことだと思う。

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リーダー、時間、信頼

2月末日、私が住むマンションの建て替え組合の解散総会が行われた。2014年6月に、10年ぶりに元住戸に引っ越しをすることができたため、住民が作っていた建て替え組合を解散することになったのである。建て替えに至った経緯、時間の流れ、多数住民のいるマンション、それは長期の交渉となり、面白い事例である。しかし、詳細に語ることは禁じられているため難しい。ただ、そこに至る人の考え、10年にわたる時間の流れという要因、代表となる人の熱意、住民間に築き上げられた信頼関係とその維持、等々、これらは交渉を考える時に重要な要因であるとしみじみ思うので語ってみたい。

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交渉学に思う

交渉を専門の授業科目として作り、担当したのは1998年だったと記憶している。経営学の領域で上級の科目にして、タイトルは「交渉行動と意思決定」とした。その頃まで研究の中心は決定分析であったのでいくらか違和感を覚えたが、ライファ先生の著書“Art & Science of Negotiation”を読みながら決定分析が交渉に適合できることを確認し教材を考えた。

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win-winという考え

「交渉とは相手方からできるだけ多くの物を得ることである」と考える人が多いのではないかと思う。
「交渉行動と意思決定」という授業を担当していた頃、第1回目に行うロールプレイングは「マウンテンバイク」であった。これは、引っ越ししなければならなくなった高校生が、愛車である中古のマウンテンバイクを売るという話である。大学2、3年生にとってはそれほど違和感を覚えるケースではない。そこで行われるやり取りと結果を見ていると、売り手は「できるだけ高く売りたい」という気持ち、買い手は「できるだけ安く買いたい」という気持ちに基づいて行動する学生が多かった。

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鳥瞰図を描く

民謡だと思うが次のような一節がある。
「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」

字義どおりに解釈すれば、「季節は夏、高い所に立って、そこから下の畑を見下ろしたなら、そこには瓜や茄子の花が咲いているのがよく見える」ということであろう。「鳥瞰する」ということの意味がよく理解できる一節だと思う。

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BATNA (Best No Deal Option)

交渉をして問題解決を図ろうとする人の目的は相手方と合意をすることにある。合意を目指しての人間行動を対象として展開するのが交渉理論である。しかし、合意に至ることができない交渉もまたいろいろとある。また、この条件では合意したくないという思いに至ることもある。そのような事態になると合意を避けて交渉のテーブルから去る、という手段がとられる。このテーブルから去るという行為を現実に行うのではなく、「こういう事態では合意することはできませんね」という態度を暗黙に示すことも交渉の技術である。その、ほかにも案を持っていますよという案を代替案(alternatives)といい、そのうちで合意案と満足度が近い最善のものをBATNAという。

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「主観である」ことが

人は客観的であるということを是とし、主観的であるということについては「個人的な意見に過ぎない」と思いがちである。客観的に示すことができる「長さ・重さ」のようなものは、対象を比較しどちらが大きいかというような検討をすることが可能である。しかし、客観的に示すことができない対象に対しても「これは好ましい」とか「これはどうもダメだな」という評価をするのが私たちの日常ではないかな、と私は思う。満足水準という考え方で判断するなら至極当然なことなのだから。ゆえに、主観を客観化することは大切なことなのである。

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「関心」について

人は「関心(interests)」を持つ物に対して目を向ける。何も関心がない物に対しては知らぬ顔をして通り過ぎる。関心が強くなると「欲しい」「手に入れたい」「自分の物にしたい」という気持ちが高じてくる。お金を出せば手に入れることができる物なら何とかして手に入れたい、という気持ちになってくる。高級品店が繁盛するのはこのような人が多いことの証である。

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行動科学

経済学の領域で「行動経済学」が広く認識され始めている。きっかけとなったのは2002年にノーベル経済学賞をカーネマン教授が受賞したことによる。2000年頃はカーネマンの名前を知っている日本の経済学者は少数派ではなかっただろうか。その研究は、認知心理学の応用として合理的な選択を人はするものだろうか、について考えるものであった。いわゆる実験によって実証するという心理学の方法を適用するものである。同じ認知心理学の研究者であるトヴェルスキーと共同研究をし、論文も共著として相当数発表しておられた。

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天動説と地動説

天動説とは「地球は宇宙の中心にあって静止している。そして太陽、月、星が地球の周りを回っている」という考え方であり、17世紀頃までは支配的な宇宙観であった。それに対して「地球や他の惑星が太陽の周りを回っている」という考え方が18世紀以降になって有力になってくる。これが地動説である。ガリレオは地動説の考えを放棄するよう迫られそれを認めたが、「それでも地球は動いている」とその後でつぶやいた、といわれている。