望月明彦氏による交渉学Web講座

認知バイアス~交渉における心理戦

NPO法人日本交渉協会常務理事 望月明彦

人間は合理的なようで実は日常の行動はあまり合理的ではないようです。人はスーパーマーケットで、「残り10個。本日まで」と書かれた特売品をつい買ってしまいますが、もしかしたらただの売れ残りかもしれません。このように合理的な判断ができない、いわば罠に陥っている状態を認知バイアスと言います。認知バイアスには様々なものがありますが、交渉においてよく見られる認知バイアスには以下のものがあります。

アンカリング
交渉相手からの最初の提示条件を中心に交渉してしまう傾向
行動のエスカレーション
最初の方針にしがみついて途中でやめられない状態
社会的証明
他人が正しいと考えていることを参考に判断してしまうこと
希少性
残り少ないことで価値あるものと感じてしまう傾向

ほかにもすでに解説した「迷信:パイの大きさは決まっている」も認知バイアスの一つです。これらバイアスは人間が正常だから陥ってしまうものです。これらバイアスに陥らないようにすることよりも、バイアスの存在を理解し、自分が交渉の中でバイアスに陥っていないかをチェックし軌道修正を図ることのほうが大切です。また一方で交渉相手に認知バイアスを仕掛けていくことも必要かもしれません。

アンカリング
あなたはそろそろパソコンを買い替えようと思っています。テレビで見て気に入ったノートパソコンがあり、値段は分かりませんが、とりあえず近所の量販店に行ってみました。あなたはお気に入りのノートパソコンを見つけ、そこに記載されている値段を見ると、何と10万円でした。あなたは店員さんを見つけ、早速価格交渉をすることにしました。「このノートパソコンが欲しいのですが、どうでしょう。8万円ぐらいにはなりませんか?」

さて、ここで仮の話をしてみましょう。あなたが量販店にパソコンを買いに行ったとき、そのノートパソコンが5万円だったとします。そのときあなたは店員さんに「4万円に値下げしてくれませんか?」と言うかもしれませんが、決して「8万円にしてくれませんか?」とは言わないでしょう。

つまり人間は交渉相手から最初に提示された条件をもとに、そこからどれだけ値下げに成功するか、と考えてしまうわけです。このように考えると、交渉では相手にアンカリングの効果を与えるためにも、先にこちらに有利な条件を提示するべきということになります。

行動のエスカレーション
あなたはある会社の企画担当者です。最近業績が苦しいある競合企業を買収するために交渉を続けています。あなたは、かれこれ3か月もの間、水面下で誰にも知られず、夜中まで相手企業を調べ、ハードな交渉を続けていました。そしてやっと合意条件が見えてきたところで、突然、相手企業から今期は大幅な赤字になりそうだという悪いニュースを聞くことになります。こんな赤字を出す企業を買収するのは危険だという意見もありましたが、この機会を逃せば、きっともうこのような大きな買収案件は出てきそうにありません。しかもあなたはこれまで3か月もの間、ハードな交渉を続けてきたので、その成果を出したいという気持ちもありました。結局あなたは大幅な赤字にも関わらず、買収すべきという結論を経営陣に説明することにしました。

あなたは大幅な赤字という事態を知ったとき、もうここまで交渉してきたのだから今更やめられないと感じましたが、これこそが行動のエスカレーションです。冷静に考えれば交渉をやめるべきなのにやめられなくなっているわけです。もしかしたら相手企業はあなたが行動のエスカレーションに陥るのを見計らって悪い情報を出してきたのかもしれません。

社会的証明と希少性
あなたは妻と一緒に家具屋さんにソファーを買いに行きました。あなたは黒い革のゆったりとしたソファーを気に入りましたが、妻は白くて硬めのローソファーに目を付けました。あなたは言いました。「この黒いソファーの張り紙に人気ナンバー1って書いてあるな。やっぱりこのソファーがいいんじゃないか?」妻も負けてはいません。「でも、このローソファーは残り1個って書いてあるわよ。このチャンスを逃したらもう買えないのよ!」さて、二人はどちらのソファーを選ぶのでしょうか。

この二人の会話から社会的証明と希少性のバイアスが見て取れます。あなたが人気ナンバー1という言葉からよいソファーだと感じたのはまさに社会的証明の罠です。そして妻が残り1個という言葉からこのチャンスを逃せないと感じたのはまさに希少性の罠です。あなたがた二人ともお店との交渉という観点からは、お店の罠にはまっているだけなのかもしれません。

実践で使える! 交渉学の知識 ~「デッドラインテクニックを使う!」
デッドライン、つまり最終回答の期限を区切って提案する方法がデッドラインテクニックです。「いついつまでにお返事をいただけなければ別のお取引先に決めさせていただきます」などです。これも「時間」が残り少ないという希少性の罠の一つです。相手に提案するときには期限を設けて希少性の罠に陥れるのも一つの戦術です。

覚えておきたい! 交渉の心得 ~「相手の動作、表情を良く観察せよ!」
「目は口ほどに物を言う」という言葉もあるとおり、動作や表情から相手の真意を読み取ることができることもあります。交渉では手元資料ばかりを見ずに、相手の目や動作をしっかりと観察するよう注意しましょう。

望月 明彦氏

望月公認会計士事務所代表
特定非営利活動法人 日本交渉協会常務理事
ディップ株式会社監査役 (東証1部上場)(現任)
アイビーシー株式会社監査役(東証1部上場)(現任)
日本公認会計士協会東京会 研修委員会 副委員長(2010~2014)
経済産業省コンテンツファイナンス研究会 委員(2002~2003)

早稲田大学政治経済学部卒。
監査法人トーマツを経て、慶応義塾大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)修了。
その後、上場企業の経営企画部長として資本政策の立案・実施、合弁会社の設立、各種M&Aなどを手掛ける。
さらに、アーンストアンドヤングの日本法人にて上場企業同士の経営統合のアドバイザー等を務める。
2010年より望月公認会計士事務所代表。日本交渉協会常務理事。

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