交渉者のディレンマ(1)
NPO法人日本交渉協会理事 窪田恭史
交渉理論を学び、交渉には大きく分けて価値を主張し、決まった大きさのパイを奪い合う「分配型交渉」と、価値を創造し、パイ自体を大きくする「統合型交渉」とがあり、統合型交渉の方が望ましいということは分かった。しかし、現実はどうか?交渉当事者が互いに価値主張を繰り広げれば、価値創造のために必要な情報が表に出ることはない。それどころか、価値の奪い合いを繰り返すほど両者の信頼を損ない、ますます価値創造は遠のくばかりである。だからといって、相手が価値主張の姿勢で臨んでいる時に、こちらが価値創造で臨んだらどうなるであろうか?相手はこちらの開示した情報を自分の利益のために利用し、こちらは一方的に搾取されることになるだろう。価値創造の交渉など、理想論に過ぎないのではないだろうか?
一方、仮に価値を創造し、パイを大きくしたとしても、その次にはその大きくなったパイをどのように分け合うのか、という分配の問題が浮上する。結局のところ、価値主張は本質的に交渉に内在するものなのではないだろうか?
ひょっとすると、読者の中にも上記のような疑問に直面したことのある方がおられるかもしれない。双方が協力し価値を創造すれば、価値を奪い合うよりお互いの利得を高めることができる。双方ともそれが分かっているにもかかわらず、もしこちらが協力し、相手が裏切れば、こちらは大きな損害を被ることになってしまう。互いがそのように考えた結果、全体としては望ましくない結果に均衡してしまう。これは前回取り上げた、ゲーム理論の「囚人のディレンマ」と同じ構造である。故に、この価値主張と価値創造の間の緊張関係は「交渉者のディレンマ(Negotiator’s Dilemma)」と呼ばれている(図1)。
残念ながら、この交渉者のディレンマを回避する絶対の方法はない。しかしながら、今回はD.ラックス、J.セベニウス著“Manager As Negotiator”(1986)より、交渉者のディレンマをいかに回避し、価値創造の交渉につなげていくためにどのようなアプローチが考えられているのかを見ていきたいと思う。
1.「囚人のディレンマ」の回避
「交渉者のディレンマ」の前に、まず「囚人のディレンマ」の回避について考えてみたい。前回のニュースレターで触れた、”Win As Much As You Can”や”Golden Balls”のように、「囚人のディレンマ」ゲームのルールを緩和し、コミュニケーションが加わることによって、「協力」の可能性が生まれる。「交渉」とは「当事者同士の相互作用による共同意思決定」のことであるので、交渉にはそもそも協力の可能性が存在していると言える。
1.1. R.アクセルロッドの実験
「囚人のディレンマ」の回避可能性として、1980年にミシガン大学の政治学者、ロバート・アクセルロッドが行った有名な実験がある。アクセルロッドは、様々な分野の研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータによる「囚人のディレンマ」ゲームを総当たり戦で200回行った。その結果、戦略の複雑さにかかわらず、ラパポートの「協力-しっぺ返し」戦略が最も高い得点を達成した。「協力-しっぺ返し」戦略とは、初回は協力し、後は相手が裏切れば即裏切り返し、協力すればまた協力に戻るという戦略である。翌年、さらに参加者を増やして再び同じ実験が行われたが、結果はまたしてもラパポートの「協力-しっぺ返し」戦略が最も高い得点を達成した。
この実験は大きな反響を呼んだが、「しっぺ返し」戦略が現実の交渉でも最適戦略と言えるかというとそうでもない。まず、「しっぺ返し」戦略は、他の戦略との総当たり戦で得点を合計した結果、最良だったというだけであり、1:1の対戦ではほとんど勝てなかった。第二に、現実の交渉では各ラウンドの利得が異なる場合があり、相手が「裏切り」を選択したことに気づかない場合も多い。しかし、アクセルロッドの実験は、「1回限りの囚人のディレンマ」ゲームを「繰り返し囚人のディレンマ」ゲームとすること、罰則と報酬が「協力」を生む可能性があることを示唆している点で意義がある。
1.2.「囚人のディレンマ」の回避策
「囚人のディレンマ」の回避策については、ゲーム理論でも既に指摘されている。先に述べた①繰り返しゲームにする、②罰則と報酬以外の回避策として、以下のようなものが挙げられる。
③競争における差別化
④プレイヤー間の評判を利用する
⑤プレイヤーの統合
2.「交渉者のディレンマ」の回避
次に「交渉者のディレンマ」について。D.ラックスとJ.セベニウスは、「交渉者のディレンマ」の回避策として、以下のようなアドバイスをしている。これを見ると、上記の「囚人のディレンマ」の回避策とほぼ同じであることが分かる。
①条件や立場ではなく関心に注目する
これは、『バーバード流交渉術』(1981)のフィッシャーとユーリも指摘していたことである。
②協創プロセスの議論から始め、かつプロセスを細分化する
これは、上記の「①繰り返しゲームにする」にあたる。
③「協力」という規範を強調する
1)協力し価値を創造したいというシグナルを発する。最初の雰囲気作りが大切である
2)中立的な第三者を利用する(この点については、次回以降触れる)
3)段階的に情報を開示し、お返しを待つ
4)信頼するが確認もする(3)と4)は上記の「②報酬と罰則」にあたる)
④信頼構築のため簡単な課題から「暫定合意」する
(この点についても、次回以降触れる)
⑤繰り返し交渉に持ち込む
(「①繰り返しゲームにする」そのままである)
⑥社会化
これは、内部組織の規範が外部交渉の態度を規定する可能性があるということである。
因みに、神経経済学者のポール・J・ザックは、オキシトシンという女性ホルモンが、共感や思いやりといった行動に影響を与えるという観点から、「道徳的な市場が最大の利益を上げる」ために必要な要素として、以下の4つを上げている。
①つながり(単純接触効果)
SNSであっても、使い方次第でオキシトシンレベルは高まる。
②信頼(競争と協力のバランスを取る)
違反者を罰する長期的な関係が、当事者を道徳的行動へ促し、信頼関係が増す。
③長期的視野(目先の金銭的利得ではなく、サービスと品質の重視)
ホールフーズ・マーケット社CEO、ジョン・マッキーが提唱する「意識の高い資本主義(conscious capitalism)」を実践する企業の収益率は、10年で1,026%を記録し、1990年代に一世を風靡したジェームズ・コリンズの「ビジョナリー・カンパニー」の331%を大きく上回ったという。
④万人の利益を考える
これらを見ると、やはり「囚人のディレンマ」および「交渉者のディレンマ」の回避策と重なる点が多いことに気づく。統合型交渉による価値創造とは、利害関係者同士の相互作用によって、全体としてより望ましい価値を生み出すことであるから、ザックのいう「道徳的な市場」が最大の効果を上げるための要素と共通していても不思議ではない。逆にこうした態度がオキシトシン分泌を促し、共感や思いやりの循環を生み出す可能性があるというザックの指摘は興味深い。
窪田 恭史氏
ナカノ株式会社 取締役副社長
日本繊維屑輸出組合理事
日本交渉協会燮会幹事
日本筆跡心理学協会、筆跡アドバイザーマスター
早稲田大学政治経済学部卒。
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)における
コンサルティングおよび研修講師業務を経て、衣類のリサイクルを85年手がけるナカノ株式会社に入社。
現在、同社取締役副社長。
2012年、交渉アナリスト1級取得。
日本交渉協会燮会幹事として、交渉理論研究を担当。
「交渉分析」という理論分野を日本に紹介、交渉アナリスト・ニュースレターにて連載中。
その他のレクチャー