決定分析(10)-損失回避性批判(2)-
NPO法人日本交渉協会理事 窪田恭史
(前回のつづき)
多くの反証にもかかわらず、損失回避性はなぜかくも持続的に広く受け入れられているのであろうか?これについてギャルとラッカーは2018年の論文の中で、興味深い考察をしている。哲学者であり科学者でもあるトーマス・クーンによれば、科学とは「コンセンサスを通じて科学的真実を定義する、本質的に社会的なプロセス」であり、証拠は主観的世界観、あるいは科学者がある時点で受け入れている信念に照らして評価される。クーンはそのような科学を「正常科学」と呼び、「一つまたはそれ以上の過去の科学的成果、ある特定の科学界がさらなる実践の基盤を提供するものとして、一時的に認めている成果に基づいた研究」と定義している。この「成果」をクーンは「パラダイム」と呼び、科学界で採用されるには、その他の科学研究領域からの支持者を引き付けるため、前例がなく、研究者が探求し、パラダイムを構築するための未解決の問題を残していなければならないと主張している。
パラダイムはどのようにして受け入れられるようになるのだろうか?クーンによれば、「パラダイムは実践者のグループが深刻だと認識するようになった問題の解決において、他の競合よりも成功したがゆえにその地位を獲得する」。損失回避性がカギとなる原則であるプロスペクト理論はまさに、個人の決定が期待値を最大化するという選好を反映しているという、合理的仮定に対する重大な逸脱を説明するモデルを提示したがゆえにパラダイムとして定着したのである。また、プロスペクト理論は、モデルを構築する科学界の支持者を引き付けるだけ前例がなく、未解決の問題を残していると見なされていた。また、リチャード・セイラー、コリン・キャメラー、ダンカン・ルース、マックス・ベイザーマン、ジョージ・ルーヴェンスタイン、エルケ・ウェーバーなど、多くの分野からの支持者を引き付けた。
クーンは、正常科学の主たる活動は、(a)パラダイムに関連する事実を(例えば、実験を通じて)収集すること、(b)事実をパラダイムの予測に一致させること、(c)パラダイムのさらなる明確化であると主張している。同時に、逸脱の識別にはほとんど努力が払われておらず、逸脱が発見されると、それらは見過ごされたり、却下されたり、無視されたりする傾向がある。実際、クーンは、パラダイムに基づく研究の大半は確証的であり、研究者が既に真実と信じていることを明らかにすることを目的としているため、確証バイアスに苦しんでいると述べている。だがそれにより、パラダイムは科学界のコンセンサスとしてますます定着するようになる。
このパターンは、まさにプロスペクト理論の発展に当てはまる。プロスペクト理論、とりわけ損失回避性というパラダイムに関連するデータを収集すること(例えば、セイラー、1980)、パラダイムにデータを適合させること(例えば、ベナルチとセイラー、1995; ハーディーら、1993)、パラダイムをさらに明確にすること(例えば、ノベムスキーとカーネマン、2005;トヴェルスキーとカーネマン、 1992)に専心した、多くの研究論文が発表された。損失回避性を支持する証拠は大きな注目を集めるが、反証は無視される傾向にある。さらには、前述の「サンクコスト効果」のように、損失と利得の相対的影響の比較が関わらない現象でさえ、損失回避性によるものと見なされている。
クーンは、パラダイムは定着するにつれて、変化にますます抵抗するようになると主張している。逸脱が最終的に簡単に無視できないと認識された時、科学者はパラダイムを覆すのではなく、モデルを微調整しようとする。損失回避性と矛盾する証拠矛盾する証拠に直面すると、支持者たちは損失回避性の根拠を疑問視するのではなく、受け入れられたパラダイムを微調整しようとした。例えば、ノベムスキー とカーネマンは、「意図して」交換された財には損失回避がないという見解で、人が常に財を売買するという観察と損失回避性を調和させようとした。以上のように、科学の概念がどのように定着し、変化に抵抗するかについてのクーンの考えは、一般原則としての損失回避性の受容が、多くの反証にもかかわらず、どのようにして持続したかを説明するのに役立つだろうと、ギャルとラッカーは述べている。
さらに、損失回避性が科学者の心を掴むのは、その概念が直感的に魅力的であったからかもしれないとギャルとラッカーは述べている。確かに、地球が宇宙の中心であるという天動説、病気は悪い空気によって引き起こされるという瘴気理論、生物は生涯で獲得した特徴を子孫に伝えるというラマルクの継承理論、空間を満たしているのは真空ではなく、物質であるという発光性エーテル、特定の物質は可燃物の一部であり、燃焼中に放出されるというフロギストン説といった過去のパラダイムは、恐らくそれらに取って代わった概念より当時は直感的魅力が大きかった可能性がある。
損失回避性の直感的魅力に関しては、日常生活でネガティブな変化が非常に強く感じられるという考えと深く共鳴しているのかもしれない。しかし、ある文脈で損失の相対的な影響が利得の影響よりも大きいからといって、それが全ての文脈に当てはまるとは限らない。それにもかかわらず、過去の例は、科学者がしばしば過度に一般化し、ひとつの原因を通して様々な現象を説明する壮大で包括的な理論を支持していることを示唆している。また、ほとんどの人が、何かを失うことは何かを得ることよりも苦痛であるという経験をしていることも損失回避性の直感的魅力を高めているかもしれない。ギャルとラッカーの論文で取り上げられた例として、著者の一人は、命の危険がある腸閉塞から飼い犬を救うため2000ドルを費やした。 犬は元々シェルターから救われた雑種であり、飼い主は当初犬を手に入れるのに2000ドルは払わなかっただろうと言っている。しかし、その犬を救うために2000ドルを払ったのは、家族に愛されるようになったからである。飼い犬が死んでしまうかもしれないという非常に強い喪失の例は、損失回避性の直感的魅力に貢献しているかもしれないが、実際には、損失回避性とは関係ない。単にペットへの愛着故に、飼う前よりも高く評価するようになったからに過ぎないのである。
参考:
Jason Hreha “The death of behavioral economics”
Eldad Yechiam (2018) ” Acceptable losses: The debatable origins of loss aversion”
David Gal, Derek D. Rucker “The Loss of Loss Aversion: Will It Loom Larger Than Its Gain?”
窪田 恭史氏
ナカノ株式会社 取締役副社長
日本繊維屑輸出組合理事
日本交渉協会燮会幹事
日本筆跡心理学協会、筆跡アドバイザーマスター
早稲田大学政治経済学部卒。
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)における
コンサルティングおよび研修講師業務を経て、衣類のリサイクルを85年手がけるナカノ株式会社に入社。
現在、同社取締役副社長。
2012年、交渉アナリスト1級取得。
日本交渉協会燮会幹事として、交渉理論研究を担当。
「交渉分析」という理論分野を日本に紹介、交渉アナリスト・ニュースレターにて連載中。
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