窪田恭史氏による交渉学Web講座

決定分析(10)-損失回避性批判(1)-

NPO法人日本交渉協会理事 窪田恭史

決定分析(8)で少し触れた、従来の期待効用理論を批判する形で起こった「プロスペクト理論」、およびそれを土台として発展した行動経済学は今や隆盛を極めている。カーネマンが「損失回避の概念は行動経済学に対する心理学の重要な貢献である」と述べているように、行動経済学の中核概念は、利得よりも損失を避けようとする人間の心理傾向、「損失回避性」であるが、この損失回避性については、近年批判も出始めている。

例えば、ウォルマートの行動科学研究のトップであるジェイソン・フレハは、自身のホームページで、現実のマーケティング・キャンペーンで損失回避性の影響を調べる研究を行ってきた結果、損失回避性は実際に存在するものの、それは大きな損失に限定されると述べている。

イスラエル工科大学のエルダド・ヤチヨンは2018年の論文で、カーネマンとトヴェルスキーがプロスペクト理論を発表した1979年の論文の中で損失回避性がどのように形作られたのかを調査している。カーネマンとトヴェルスキーは同論文の中で、「反射効果」、「フレーミング効果」、「小さい確率の過大評価」、「中から大程度の確率の過小評価」、「損失回避性」といった、期待効用理論の予測と矛盾する幾つかの重要な経験的規則性を明らかにしている。しかし、これらの内、損失回避性以外のものは実験による裏付けを行っているものの、損失回避性だけは既定の事実として扱われていたのである。

何故なら、ガレンターとプライナーによる1974年の研究が、損失回避性を示す最初の実証的研究として引用されているためである。ところが、このガレンターとプライナーの研究は、損失回避性を支持するものではない。むしろ彼らは次のように述べているのである、「どちらかというと我々が観察したのは、予想よりはるかに小さい(損失と利得の)非対称性…関数の曲率は正から負に代わっても変化しないということである」。つまり、ガレンターとプライナーの研究は誤って引用されたのだ。

カーネマンとトヴェルスキーに続き、フィッシュバーンとコッヘンバーガーは、1979年にグレイソン、グリーン、スワルム、ホルターとディーン、バーンズとラインムートの5つの先行研究をレビューし、効用関数の損失と利得の非対称性を評価している。しかし、このレビューも問題がある。例えば、グリーンの研究はそもそも損失が含まれていなかったにもかかわらず、結果は損失回避性を示すものと主張された。グレイソンの研究に至っては、損失回避性を支持するようフィッシュバーンとコッヘンバーガーによって改変が加えられているのである。

さらに、上記の研究はいずれも1,000ドル以上の高額の場合の実験であったが、デビッドソン、シーゲル、サップスが行った1955年の少額での研究(50セントの利得または損失)では、利得と損失の効用曲線は対称的であり、損失と利得の効用比はわずか1.1であった。これはカーネマンとトヴェルスキーによって1992年に推定された2.25(つまり損失は利得より約2倍大きく感じられる)よりはるかに低い。他にもモステラーとノギー、リキテンスタイン、スロヴィック、カッツらが行った研究でも、損失回避性が示されないか、損失回避性が示されるのはより高額の場合であることが示唆されている。しかし、こうした先行研究はカーネマンとトヴェルスキーによって引用されなかった。

ヤチヨンとホックマンによれば、損失回避性の研究は少~中額(最大100ドル)のものと、高額(500ドル以上)のものとに分けられるという。その内、損失回避性が見出されるのは後者の場合のみである。つまり、損失回避性は一部の条件下で起こる心理的傾向に過ぎないにもかかわらず、人間行動の基本原則として過大に解釈されたのである。

損失回避性が一般的心理原則として扱われたことにより、「現状維持バイアス」、「授かり効果」、「サンクコスト効果」、「価格弾力性」、「気質効果」、「損失と利得のフレーミング」といった、合理的モデルから逸脱する様々な経験的現象も損失回避性の証拠としてしばしば引用される。しかし、これらの現象にはすべて別の説明がある。例えば、変化や未知のものを避けて現状維持を望む「現状維持バイアス」は、損失と利得というより非行動と行動(簡単に言えば、怠惰)の問題である。イリノイ大学シカゴ校のデビッド・ギャルは、現状維持バイアスの説明に損失回避性が必要ないことを示すため、本質的に同一の財(25セント硬貨)を交換するかの実験を行った。カーネマンによれば、本質的に同一の財を交換する場合、損失回避性は機能しないとのことであるが、結果は被験者の85%以上が元の25セント硬貨を維持した。つまり、損失/利得と非行動/行動を切り離した場合、損失回避性の証拠は存在しない。自分の持っているものを高く評価し、手放したくないと考える「授かり効果」も同様である。既に投下してしまい、取り戻すことができない費用を惜しんで、それが将来の意思決定に影響を与える「サンクコスト効果」は、そもそも損失と利得の比較ではないため、損失回避性の有無を証明することはできない。価格が上昇した株を早期に売り、下落した株を保有し続ける投資家の傾向である「気質効果」は、損失回避性というより、反射効果(利得をリスク回避的に、損失をリスク愛好的に評価する傾向)や平均回帰性(いったん大きく振れた相場が平均値へ戻ろうとする性質)によって説明できる。結局、これらの現象に基本原則としての損失回避性を支持する証拠はなかったのである。

損失の方が利得よりも大きく映るということは確かに存在するが、コンテクストによって利得の方が損失よりも大きく映る場合もあるし、損失と利得が同等の影響力を持つ場合もある。ギャルとノースウェスタン大学のデレク・D・ラッカーは、損失と利得の心理的影響におけるコンテクストの役割を探求すること、損失と利得を同列に扱うのではなく、それぞれがどのように異なる心理的影響を及ぼすのかを研究することが必要であると述べている。損失回避性の過度な一般化は、それこそ研究を確証バイアス(仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと)に陥らせ、損失と利得に関する心理的プロセスの解明を難しくし、重要な研究課題を覆い隠してしまう恐れがある。(次回へつづく)


 

参考:
Jason Hreha “The death of behavioral economics”

The Death Of Behavioral Economics


Eldad Yechiam (2018) ” Acceptable losses: The debatable origins of loss aversion”
David Gal, Derek D. Rucker “The Loss of Loss Aversion: Will It Loom Larger Than Its Gain?”


窪田 恭史氏

ナカノ株式会社 取締役副社長
日本繊維屑輸出組合理事
日本交渉協会燮会幹事
日本筆跡心理学協会、筆跡アドバイザーマスター

早稲田大学政治経済学部卒。
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)における
コンサルティングおよび研修講師業務を経て、衣類のリサイクルを85年手がけるナカノ株式会社に入社。
現在、同社取締役副社長。
2012年、交渉アナリスト1級取得。
日本交渉協会燮会幹事として、交渉理論研究を担当。
「交渉分析」という理論分野を日本に紹介、交渉アナリスト・ニュースレターにて連載中。

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人の認知は確率判断が苦手である。今回は、確率判断における認知バイアスとして、「連言錯誤」、「基準比率の無視」、「少ないサンプルの予測力の過小評価」を取り上げる。

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ある事象Aが起こったという条件のもとでの事象Bの確率(条件付き確率)が成り立つ定理を「ベイズの定理」といい、18世紀の数学者、トーマス・ベイズによって示され、その後、ラプラスによって再発見・発展した。意思決定論とは、ある情報を得て次にどの行動をとるのが最善かを決める理論のことであるが、その決定にベイズの定理を用いた意思決定をベイズ的意思決定という。

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決定分析(10)-損失回避性批判(2)-

科学とは「コンセンサスを通じて科学的真実を定義する、本質的に社会的なプロセス」であり、証拠は主観的世界観、あるいは科学者がある時点で受け入れている信念に照らして評価される。クーンはそのような科学を「正常科学」と呼び、「一つまたはそれ以上の過去の科学的成果、ある特定の科学界がさらなる実践の基盤を提供するものとして、一時的に認めている成果に基づいた研究」と定義している。この「成果」をクーンは「パラダイム」と呼び、科学界で採用されるには、その他の科学研究領域からの支持者を引き付けるため、前例がなく、研究者が探求し、パラダイムを構築するための未解決の問題を残していなければならないと主張している。

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決定分析(10)-損失回避性批判(1)-

従来の期待効用理論を批判する形で起こった「プロスペクト理論」、およびそれを土台として発展した行動経済学は今や隆盛を極めている。カーネマンが「損失回避の概念は行動経済学に対する心理学の重要な貢献である」と述べているように、行動経済学の中核概念は、利得よりも損失を避けようとする人間の心理傾向、「損失回避性」であるが、この損失回避性については、近年批判も出始めている。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(3)-

Q3’、Q4’は、Q3、Q4の利得を損失に変えたものであることが分かる。Q4’の方は損失の期待値がやや低いDを選択した方がわずかに多かったので、これは期待効用理論の観点からも理解できる。問題はQ3’の方である。Aの方が損失の期待値がわずかに大きいが、それにもかかわらず圧倒的多数の92%がAを選んだのである。これはどういうわけであろうか?カーネマンらの説明によれば、人は損失を嫌う、したがって、確実な損失を回避するため、リスクをとる傾向にあるというものである。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(2)-

期待効用理論で考えれば、AとB、CとDの確率的利得の比率は、共に16:15である。つまり、選択されるのはAとC、BとDのいずれかであるのが合理的である。そして、期待値はAとCがいずれも高いので、AとCが合理的選択となる。ところが、実験結果はBとCであり、しかもQ3では80%という圧倒的比率でBが選ばれた。考えられるのは、Q3については前回同様、損失回避性により確実な方が選ばれたということ、Q4についてはどちらも当たる確率が低く、両者の確率の差も大きくないので、そうであれば金額の大きい方に賭けてみようというものだ。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(1)-

ライファはカーネマンやトヴェルスキーの主張するプロスペクト理論を否定してはいない。期待効用理論が現実の人間行動を上手く記述できないことも認めており、”Negotiation Analysis”の中でも行動意思決定論の研究成果をしばしば取り上げている。それでもライファは、より良い意思決定を行う手法として期待効用理論は依然として有用であると考えており、1985年に”Back from Prospect Theory to Utility Theory”という論文を著している。交渉分析において、交渉相手の行動や戦略を記述的に説明したり予測したりするには、行動意思決定的分析が優れており、その上で交渉当事者が意思決定の処方を下すための規範を示すのには従来の決定分析が優れていると、それぞれ役割が異なるとライファは考えていた。

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決定分析(8)-期待効用理論に対する批判-

前回述べたように、期待効用理論は現実の人間の行動を説明するものではないとする批判も多い。その先鞭ともいえるのが、「アレのパラドックス」である。1988年にノーベル賞を受賞した、経済学者のモーリス・アレは、1953年にニューヨークで行われた会議において、以下のような実験を行い、実際の人間が期待効用理論には従わないということを示した。

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決定分析(7)-リスク下の意思決定-

経済学者のフランク・ナイトによれば、リスクとは「確率が分かっている不確実性」を言い、確率が分からない真の「不確実性」とは区別する。代替案にリスクがある場合、その代替案がどのような結果となるかは、確率的にしか分からない。起こる結果の価値分析の方法には、「定性的順序」、「貨幣価値」(EMV)、「望ましさの価値」(EDV)、「効用価値」(EUV)の四つがある。

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決定分析(6)-等価交換-

ミラーは帰結表を作り直す(表1)。表を眺めると、3つの代替案については通勤時間がほぼ同じであることが分かる。バラノフの通勤時間が等価交換で25分になれば、代替案すべての通勤時間は同じになり、目的から外すことができる(これは期待効用理論における独立性の公理と同じ考え方である)。ミラーは、バラノフの通勤時間の増加分をクライアントへのアクセスの8%の増加で埋め合わせることができると決定する。慎重に検討した結果、彼は交換を行い、通勤時間を無意味にする。

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決定分析(5)-等価交換-

意思決定において、すべての目的を同時に達成できればよいが、常にそのようにできるとは限らない。その場合、目的間でトレードオフを行い、いかに妥協をするかを考えなければならない。しかし、トレードオフを行うのは容易ではない。トレードオフを難しくしている要因には、以下のようなものが挙げられる。