窪田恭史氏による交渉学Web講座

交渉アナリストとは何か?(1)

NPO法人日本交渉協会理事 窪田恭史

交渉アナリストという資格名が、故ハワード・ライファの“Negotiation Analysis:The Science and Art of Collaborative Decision Making”(以下、“Negotiation Analysis”)に由来するというのは、前回述べた通りである。しかし、筆者の周りの交渉アナリスト1級会員の間でも、「交渉アナリストとは何なのか?」という疑問を時折耳にすることがある。交渉アナリストが何なのかについて、もちろん協会として定義がある。例えば、交渉アナリスト1級とは、「高い交渉力を持って、社会に貢献できる人」というのが定義である。しかし、その定義によって何故「アナリスト(analyst)」と称するのか?何故、単に交渉を実践する「ネゴシエーター(negotiator)」ではないのか?アナリストというからには、交渉を何らかの形で「分析する人」のあるはずである。では、交渉を分析するとはどういうことなのであろうか?そして何故交渉を分析することが「高い交渉力を持って、社会に貢献できる人」につながるのであろうか?今回は二回にわたり、名称の由来である“Negotiation Analysis”の構成を紐解きながら、その疑問について考えてみたい。

1.交渉分析とは何か?

前回の「ハワード・ライファ先生について」でも述べたように、「交渉分析(Negotiation Analysis)」という学問分野を開拓したのが、ハワード・ライファ(1924-2016)であり、それは1982年の著書” The Art and Science of Negotiation”を以て成立したと考えてよい。つまり、交渉分析は比較的新しい学問分野である。

交渉分析は、ゲーム理論と決定論(意思決定論と呼ぶ場合もある)を基礎にした学問であり、いずれも「意思決定」を扱うという意味では共通している。しかし、これらの間には、対象や分析アプローチに相違があり、まずこれらの違いについて述べたいと思う。もちろん、ゲーム理論も決定論もそれぞれの学問分野で独自の発展を遂げており、これから述べる分類には必ずしも当てはまらない場合がある。しかし、ここでは交渉分析についての理解を容易にするため、あくまで元々の原理としてのゲーム理論、決定論を想定して対比したいと思う。

1-1.交渉分析の対象

まず意思決定の対象について。決定論は「個人の意思決定」を対象にした学問である。一方、ゲーム理論は、相手と自分双方の意思決定が互いの意思決定に影響を及ぼすという点で、複数人による「双方向の意思決定」を対象としている。交渉分析も対象は複数である。しかし、ゲーム理論との相違は、交渉が相手とのコミュニケーションによって意思決定を行うという点である。その意味で、交渉分析とは、「共同意思決定」を対象とした学問ということができる。決定論とゲーム理論を単数人と複数人の意思決定の両極端とすれば、交渉分析はその間に位置づけられる。

1.2.交渉分析のアプローチ

意思決定のアプローチには、以下の三つがある。

1)規範的(normative)…厳密な前提と一貫した論理により、あるべき姿を探求する
2)記述的(descriptive)…現実の人々の意思決定を観察する
3)処方的(prescriptive)…規範と記述によって人々の意思決定の改善を目的とする

規範的アプローチは、一貫したモデルによって理想的な意思決定を探求するものである。しかし、一貫性が求められる故に、情報の対称性や完全合理性など、現実の人々にはあり得ない前提が置かれる。規範的アプローチがモデルとしては美しくても、しばしば現実に適用できないと非難されるのはこの故である。原理としてのゲーム理論や決定論は、規範的アプローチである。

交渉分析は、ゲーム理論や決定論のような規範的アプローチを基礎としつつ、記述的アプローチによって得られる現実の意思決定を改善するための処方を描く、処方的アプローチである。そのために交渉分析は、情報の非対称性、限定合理性など、現実に即した前提を置く。この故に、ライファの意思決定アプローチは「非対称的処方/記述的アプローチ」と呼ばれることもある。

記述的アプローチについては、1970年代終わりに登場した核磁気共鳴画像法(MRI)、その後の機能的MRIの登場により、脳神経科学や認知心理学の分野の研究が大いに進んだ。これにより、1980年代以降、認知心理学の影響を受けた行動意思決定論が意思決定の分野でも台頭した。この行動意思決定論の知見も取り込み、2002年に”The Art and Science of Negotiation”を大幅改訂したものが、”Negotiation Analysis”である。

決定論は双方向の問題分析に適さず、ゲーム理論は双方向ではあるが、合理性の仮定が厳しするため、現実の事象をうまく記述できないという、それぞれ限界があった。一方、記述的心理学的アプローチもしばしば処方的枠組みを欠いていると言われる。交渉理論は決定論とゲーム理論を基礎に置きつつも、その仮定を緩めることでこの限界を克服しようと試みる。つまり、ゲーム理論が情報の対称性とプレイヤーの完全合理性を前提とし、相手の最適戦略を所与として最適にどう対処すべきか、という観点で分析するのに対し、交渉理論は情報の非対称性、交渉当事者の限定合理性を前提として、交渉相手がどのように振る舞うだろうかという、確率と心理的要素を考慮した記述に基づき、一方の交渉当事者に処方的アドバイスを生み出そうとする。これが交渉を分析するということであり、それによって交渉アナリストは、「問題解決者」としての役割を果たすのである。

【図 1】 “Negotiation Analysis”の体系


以上を踏まえて、”Negotiation Analysis”の章構成を筆者が分類・整理したものが、【図1】である。同書は交渉を含む、意思決定の体系であることが分かると思う。ライファは同書の中で、この体系を「意思決定科学と呼びたい」と述べている。

1.3.交渉分析の要素

ライファの教え子でもある、ハーバード・ビジネススクール 教授のジェームス・K・セベニウスは、交渉分析にあたって考慮すべき基本要素を挙げている。

1)当事者:交渉に関与するステークホルダーは誰か?これには直接・間接の当事者だけでなく、交渉結果が影響する将来世代なども含まれる。
2)交渉の「問題」と「関心」を識別する。
3)BATNA(交渉が合意しない場合の最善の代替案)を評価する。
4)合意可能範囲(ZOPA)内でのより望ましい変化を考える。
5)価値主張(分配型)と価値創造(統合型)の間の緊張関係のマネジメント:統合型交渉であっても、価値主張と価値創造をめぐる緊張関係は常に存在する。
6)相手の行動の洞察:行動意思決定論の研究成果が役に立つ。
7)交渉そのものを変える(参考:ラックス、セベニウス著『最新ハーバード流 3D交渉術』)。
8)全体としてのアプローチ:上記の要素を総合的に考える。

 

参考:
Sebenius, James K. “Negotiation Analysis: From Games to Inferences to Decisions to Deals .”
Negotiation Journal 25, no. 4 (October 2009): 449–465.
Ralph L. Keeney (2016) Remembering Howard Raiffa. Decision Analysis 13(3):213-218.
Richard Zeckhauser(2017)Howard Raiffa and Our Responsibility to Rationality.
Negotiation Journal October 2017
Erwann Michel-Kerjan, Paul Slovic (2010)The Irrational Economist: Making Decisions in a Dangerous World
Prof. Howard Raiffa, Giant in Game Theory and Decision Analysis, Dies at 92(12 JUL 2016)
https://www.hbs.edu/news/releases/Pages/howard-raiffa-obituary.aspx
Howard Raiffa John Richardson David Metcalfe(2002)Negotiation Analysis: The Science and Art of Collaborative Decision Making

窪田 恭史氏

ナカノ株式会社 取締役副社長
日本繊維屑輸出組合理事
日本交渉協会燮会幹事
日本筆跡心理学協会、筆跡アドバイザーマスター

早稲田大学政治経済学部卒。
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)における
コンサルティングおよび研修講師業務を経て、衣類のリサイクルを85年手がけるナカノ株式会社に入社。
現在、同社取締役副社長。
2012年、交渉アナリスト1級取得。
日本交渉協会燮会幹事として、交渉理論研究を担当。
「交渉分析」という理論分野を日本に紹介、交渉アナリスト・ニュースレターにて連載中。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(1)-

ライファはカーネマンやトヴェルスキーの主張するプロスペクト理論を否定してはいない。期待効用理論が現実の人間行動を上手く記述できないことも認めており、”Negotiation Analysis”の中でも行動意思決定論の研究成果をしばしば取り上げている。それでもライファは、より良い意思決定を行う手法として期待効用理論は依然として有用であると考えており、1985年に”Back from Prospect Theory to Utility Theory”という論文を著している。交渉分析において、交渉相手の行動や戦略を記述的に説明したり予測したりするには、行動意思決定的分析が優れており、その上で交渉当事者が意思決定の処方を下すための規範を示すのには従来の決定分析が優れていると、それぞれ役割が異なるとライファは考えていた。

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前回述べたように、期待効用理論は現実の人間の行動を説明するものではないとする批判も多い。その先鞭ともいえるのが、「アレのパラドックス」である。1988年にノーベル賞を受賞した、経済学者のモーリス・アレは、1953年にニューヨークで行われた会議において、以下のような実験を行い、実際の人間が期待効用理論には従わないということを示した。

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経済学者のフランク・ナイトによれば、リスクとは「確率が分かっている不確実性」を言い、確率が分からない真の「不確実性」とは区別する。代替案にリスクがある場合、その代替案がどのような結果となるかは、確率的にしか分からない。起こる結果の価値分析の方法には、「定性的順序」、「貨幣価値」(EMV)、「望ましさの価値」(EDV)、「効用価値」(EUV)の四つがある。

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ミラーは帰結表を作り直す(表1)。表を眺めると、3つの代替案については通勤時間がほぼ同じであることが分かる。バラノフの通勤時間が等価交換で25分になれば、代替案すべての通勤時間は同じになり、目的から外すことができる(これは期待効用理論における独立性の公理と同じ考え方である)。ミラーは、バラノフの通勤時間の増加分をクライアントへのアクセスの8%の増加で埋め合わせることができると決定する。慎重に検討した結果、彼は交換を行い、通勤時間を無意味にする。

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決定分析(5)-等価交換-

意思決定において、すべての目的を同時に達成できればよいが、常にそのようにできるとは限らない。その場合、目的間でトレードオフを行い、いかに妥協をするかを考えなければならない。しかし、トレードオフを行うのは容易ではない。トレードオフを難しくしている要因には、以下のようなものが挙げられる。