窪田恭史氏による交渉学Web講座

ハワード・ライファ先生について

NPO法人日本交渉協会理事 窪田恭史

交渉アナリストという資格名は、ハーバード大学名誉教授、故ハワード・ライファ先生(1924‐2016、以下敬称略)が2002年に著した交渉分析の大著、” Negotiation Analysis: The Science and Art of Collaborative Decision Making”に由来する。しかし、”Getting To Yes”(邦題『ハーバード流交渉術』)を著したロジャー・フィッシャーやウィリアム・ユーリと比べると、我が国におけるライファの知名度は必ずしも高いとは言えない。しかし、交渉学の世界において、ライファの功績は欠くべからざるものであり、その逝去にあたっては、数多くの追悼文が寄せられたほか、“Negotiation Journal”(2017年10月18日号)では、丸々ライファの追悼特集が組まれたほどである。本稿では、交渉分析(Negotiation Analysis)という分野を切り開いたライファの功績に触れつつ、交渉分析とは何かについて考える一助としてみたい。

1.専門家としての功績

交渉分析は、簡単に言うとゲーム理論と決定論を土台にして発展した学問である。ライファの知的関心はゲーム理論から、決定論、交渉分析へと展開していった。これらの分野における専門家としてのライファの貢献は、1957年にダンカン・ルースと著した” Games and Decisions:Introduction and Critical Survey” (Luce and Raiffa 1957)を嚆矢とする。同書は、ゲーム理論の概念、結果、妥当性を体系化し、1944年にフォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンが紹介して以降、休眠状態にあったゲーム理論に再び光を当て、幅広い読者から受け入れられた。同書は現在もなお発行されており、不確実性の下での意思決定と、ゲーム理論の基本概念の古典的情報源とされている。

1957年にハーバード・ビジネススクールに移ったライファは、ロバート・シュレイファー、ジョン・プラットと共に、”Applied Statistical Decision Theory” (Raiffa and Schlaifer 1961)、“Introduction to Statistical Decision Theory“ (Pratt et al. 1965)を著し、標準的な統計的問題についてのベイズ論的分析の基礎を提示した。さらに、1968年に著した” Decision
Analysis“ (Raiffa 1968)は、決定分析の基礎を明らかにした最初の本となった。因みに、ライファがランド研究所在籍時にまとめた「ランド報告書」(1969)は、政策、科学政策、公衆衛生、臨床医学など幅広い分野において、いかに決定分析を使い、問題に対処するかのあらましを述べている。

前述のように、ライファの関心はやがて交渉へと移っていく。1982年、ライファは” The Art and Science of Negotiation”(Raiffa 1982)を著した。 同書は、それまで経験的に語られがちだった交渉を科学としての妥当性を持った分野とする概念と手順を開発し、交渉分析の基礎を築いた。同書においてライファは、様々な協力的戦略により、全ての側が自分たちの目的をより良く達成しうることを示し、協力的交渉の価値を強調している。2002年に著した”Negotiation Analysis:The
Science and Art of Collaborative Decision Making”(以下、”Negotiation Analysis”)は、同書にライファの初期の研究(ゲーム理論)を統合し、さらに同書発刊後の20年間に発展した、行動意思決定論などの成果を取り込んだものである。

そして1999年には、ジョン・ハモンド、ラルフ・キーニーと共に、決定分析の専門的知識を必要とせず、その概念を誰もが日常の意思決定に利用できるよう実用的に紹介した、“Smart Choices ”(邦題『意思決定アプローチ―「分析と決断」』)を著した。このことからも分かるように、ライファの最大の関心は、いかに学術的成果を現実に適用することで、社会を改善できるかにあった。その姿勢は、次に述べるライファのリーダーシップにも如実に表れている。

 

参考:
Ralph L. Keeney(2016)Remembering Howard Raiffa. Decision Analysis 13(3):213-218.
Richard Zeckhauser(2017)Howard Raiffa and Our Responsibility to Rationality.
Negotiation Journal October 2017
Erwann Michel-Kerjan, Paul Slovic(2010)The Irrational Economist: Making Decisions in a Dangerous World

窪田 恭史氏

ナカノ株式会社 取締役副社長
日本繊維屑輸出組合理事
日本交渉協会燮会幹事
日本筆跡心理学協会、筆跡アドバイザーマスター

早稲田大学政治経済学部卒。
アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)における
コンサルティングおよび研修講師業務を経て、衣類のリサイクルを85年手がけるナカノ株式会社に入社。
現在、同社取締役副社長。
2012年、交渉アナリスト1級取得。
日本交渉協会燮会幹事として、交渉理論研究を担当。
「交渉分析」という理論分野を日本に紹介、交渉アナリスト・ニュースレターにて連載中。

その他のレクチャー

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決定分析(13)-確率判断における認知バイアス-

人の認知は確率判断が苦手である。今回は、確率判断における認知バイアスとして、「連言錯誤」、「基準比率の無視」、「少ないサンプルの予測力の過小評価」を取り上げる。

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決定分析(12)-モンティ・ホール問題-

ベイズの定理と直感的な推論がずれることの有名な例に、「モンティ・ホール問題」と呼ばれるパラドックスがある。モンティ・ホールとは、“Let‘s Make a Deal”というアメリカのバラエティ番組の司会者の名前であり、同番組を例にした以下のような問題である。読者は選んだドアを変えるだろうか?それとも、そのままにするだろうか?

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決定分析(11)-ベイズの定理-

ある事象Aが起こったという条件のもとでの事象Bの確率(条件付き確率)が成り立つ定理を「ベイズの定理」といい、18世紀の数学者、トーマス・ベイズによって示され、その後、ラプラスによって再発見・発展した。意思決定論とは、ある情報を得て次にどの行動をとるのが最善かを決める理論のことであるが、その決定にベイズの定理を用いた意思決定をベイズ的意思決定という。

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決定分析(10)-損失回避性批判(2)-

科学とは「コンセンサスを通じて科学的真実を定義する、本質的に社会的なプロセス」であり、証拠は主観的世界観、あるいは科学者がある時点で受け入れている信念に照らして評価される。クーンはそのような科学を「正常科学」と呼び、「一つまたはそれ以上の過去の科学的成果、ある特定の科学界がさらなる実践の基盤を提供するものとして、一時的に認めている成果に基づいた研究」と定義している。この「成果」をクーンは「パラダイム」と呼び、科学界で採用されるには、その他の科学研究領域からの支持者を引き付けるため、前例がなく、研究者が探求し、パラダイムを構築するための未解決の問題を残していなければならないと主張している。

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決定分析(10)-損失回避性批判(1)-

従来の期待効用理論を批判する形で起こった「プロスペクト理論」、およびそれを土台として発展した行動経済学は今や隆盛を極めている。カーネマンが「損失回避の概念は行動経済学に対する心理学の重要な貢献である」と述べているように、行動経済学の中核概念は、利得よりも損失を避けようとする人間の心理傾向、「損失回避性」であるが、この損失回避性については、近年批判も出始めている。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(3)-

Q3’、Q4’は、Q3、Q4の利得を損失に変えたものであることが分かる。Q4’の方は損失の期待値がやや低いDを選択した方がわずかに多かったので、これは期待効用理論の観点からも理解できる。問題はQ3’の方である。Aの方が損失の期待値がわずかに大きいが、それにもかかわらず圧倒的多数の92%がAを選んだのである。これはどういうわけであろうか?カーネマンらの説明によれば、人は損失を嫌う、したがって、確実な損失を回避するため、リスクをとる傾向にあるというものである。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(2)-

期待効用理論で考えれば、AとB、CとDの確率的利得の比率は、共に16:15である。つまり、選択されるのはAとC、BとDのいずれかであるのが合理的である。そして、期待値はAとCがいずれも高いので、AとCが合理的選択となる。ところが、実験結果はBとCであり、しかもQ3では80%という圧倒的比率でBが選ばれた。考えられるのは、Q3については前回同様、損失回避性により確実な方が選ばれたということ、Q4についてはどちらも当たる確率が低く、両者の確率の差も大きくないので、そうであれば金額の大きい方に賭けてみようというものだ。

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決定分析(9)-効用理論に戻れ(1)-

ライファはカーネマンやトヴェルスキーの主張するプロスペクト理論を否定してはいない。期待効用理論が現実の人間行動を上手く記述できないことも認めており、”Negotiation Analysis”の中でも行動意思決定論の研究成果をしばしば取り上げている。それでもライファは、より良い意思決定を行う手法として期待効用理論は依然として有用であると考えており、1985年に”Back from Prospect Theory to Utility Theory”という論文を著している。交渉分析において、交渉相手の行動や戦略を記述的に説明したり予測したりするには、行動意思決定的分析が優れており、その上で交渉当事者が意思決定の処方を下すための規範を示すのには従来の決定分析が優れていると、それぞれ役割が異なるとライファは考えていた。

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決定分析(8)-期待効用理論に対する批判-

前回述べたように、期待効用理論は現実の人間の行動を説明するものではないとする批判も多い。その先鞭ともいえるのが、「アレのパラドックス」である。1988年にノーベル賞を受賞した、経済学者のモーリス・アレは、1953年にニューヨークで行われた会議において、以下のような実験を行い、実際の人間が期待効用理論には従わないということを示した。

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決定分析(7)-リスク下の意思決定-

経済学者のフランク・ナイトによれば、リスクとは「確率が分かっている不確実性」を言い、確率が分からない真の「不確実性」とは区別する。代替案にリスクがある場合、その代替案がどのような結果となるかは、確率的にしか分からない。起こる結果の価値分析の方法には、「定性的順序」、「貨幣価値」(EMV)、「望ましさの価値」(EDV)、「効用価値」(EUV)の四つがある。

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決定分析(6)-等価交換-

ミラーは帰結表を作り直す(表1)。表を眺めると、3つの代替案については通勤時間がほぼ同じであることが分かる。バラノフの通勤時間が等価交換で25分になれば、代替案すべての通勤時間は同じになり、目的から外すことができる(これは期待効用理論における独立性の公理と同じ考え方である)。ミラーは、バラノフの通勤時間の増加分をクライアントへのアクセスの8%の増加で埋め合わせることができると決定する。慎重に検討した結果、彼は交換を行い、通勤時間を無意味にする。

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決定分析(5)-等価交換-

意思決定において、すべての目的を同時に達成できればよいが、常にそのようにできるとは限らない。その場合、目的間でトレードオフを行い、いかに妥協をするかを考えなければならない。しかし、トレードオフを行うのは容易ではない。トレードオフを難しくしている要因には、以下のようなものが挙げられる。