黒船の交渉学 ~ハリスの見た「ボトム・アップ社会」後編~
NPO法人 日本交渉協会名誉理事長 藤田忠
「トップ・ダウンとボトム・ダウン」
アメリカ式の決断方式は、トップ・ダウン方式である。上の決断が徐々に下に下りていくやり方である。それに対して日本の方式は、ボトム・アップ方式、いわゆる根まわしである。根まわしの場合、いったん話がつけば、そのあと実行段階に入ってからは比較的スムーズにいく。が、それまでが大変である。
根まわしに似た日本の決断方式に、稟議制がある。これは、本来日本の官庁の行政システムである。大学を出て2、3年、しかも国家公務員試験の上級を通ってきたエリートが、研修を兼ねて、1年間だけ地方の税務所長などに赴任する。一種の帝王学を身につける儀式である。が、若い官僚は具体的な知識はさほどない。が、知らないでは通らない。ここで考え出されたのが稟議制である。下から、具体的な細やかな事例をもっともよく知っている者から、順次書類に印鑑を押し、上に上げていく。連帯責任のもたれ合い制度である。
これには時間がかかる。が、その間、情報のフィードバックが繰り返され、情報そのものが洗練され、過ちも少なくなる。しかも、一人ひとりが承認した形になっているので、これを実行に移す段になって誰も文句を言えない。だから、比較的時間がかからないのである。が、決断に手間どるのは明らかである。
アメリカ流のトップ・ダウン方式は、西部開拓時代からの伝統であるという人もいる。インディアンの襲撃に対応するために生まれたのだというのである。インディアンが忽然と姿を現し、騎馬で襲撃してくるのに集団合議していては対応できない。そこから、このトップ・ダウン方式というきわめて男性的な方式ができ上がったというのである。
トップ・ダウン方式は、確かに決断は早い。が、やはりマイナス面もある。決断後、徐々に下に下ろす段階で色々注文がつく場合があるからだ。決断そのそのものが、矛盾を含んでいる場合、特に実行段階でその決断を説明し、相手を納得させるために時間がかかるのである。だから、アメリカのトップは、常に緊張を強いられる。そして、トップにとどまっている期間も日本に比べると非常に短い。
とまれ、ハリスは、日本に来てまずこの日本的対応にひどくいらだったようである。
「(日本人は)新しい申し出のあるたびに、長い間の熟考を経なければならず、西洋人のように即決することができない」と日記でその胸のうちを語っている。
「日本側の事情」
ハリスは、江戸で将軍の親書を大統領に手渡したいと考えていた。ハリスの使命は、日本と通商条約を結ぶことにあったのである。和親条約には貿易規定というものは正式にはもっていなかった。通商条約ということになると、長い間鎖国情態で、もちろん資本主義社会の外側にいた国が、突然、自由競争社会という厳しい荒波の中にほうり出されるわけである。
つまり通商条約とは、国の経済状況の激変を招く重大な条約であったのである。その重さを、当時指導者達は、どこまでわかっていただろうか。ともかく、日本側はハリスを下田に閉じ込めるのに懸命だった。徹底的に彼の江戸出府の引き延ばし政策をとるのである。
ハリスは、次第にいらだってくる。「日本人は虚偽と、欺瞞とお世辞と丁寧さとの、途方もない芝居をやる」
ハリスは閣老宛の手紙で、江戸への出府を強く希望するのだが、下田奉行が口頭でこれを断ってきた。健康のすぐれなかったハリスは、さらに不安にさいなまれ始めるのである。
「一隻の軍艦もいないことは、日本人に対する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしに何らの譲歩をもしていない。われわれの交渉の将来のいかなる改善も、ただ力の示威があってこそ行われるだろう」
この頃幕府は、かなり正確に世界の情報を掴んでいた。特に隣国中国が、アヘン戦争で英国にひどい目にあっている。頑迷に鎖国政策をとる中国に対し、英国は阿片と戦争とを持ち込んだのである。そして、戦果として、結局は中国を開国させた。この侵略的アングロ・サクソン流やり方を幕府はよく知っている。これだけは避けなければならない。
蒸気機関の出現は世界を小さくした。従来の鎖国政策を続けられるものではない。しかし、国内にはムードだけで決定的に情報が不足した攘夷論が色濃く残っている。これが大向こうにはうけている。太平洋戦争前における日本の世論は攘夷論の末裔であった。情報不足にもかかわらず(情報不足だからこそ)、威勢がよい(威勢だけがよい)。人気を博す。これを上手に処理しないと内乱になる。また対外的にもうまく立ちまわらないと外国との戦い―外戦になる。幕府は内乱と外戦との両方の危険性を足下に見ながら、危険な綱渡りをしていかなければならなかったのだ。ハリスの返答に時間がかかったのも、確かに、当然と言えば当然である。
「ペリーの大砲とハリスの舌鋒」
「1857年7月23日 今日正午、丘の見張所から号砲が発射された。それは、この11ヶ月間私が味わったような孤独の生活をしてきた者だけが感ずることのできる歓喜をもたらした・・・・その船は1時少しすぎに青いもやのなかに消えてしまい、再び現れなかった」
「7月24日 夜明けに起きて、江戸湾と南太平洋を見渡せる東の丘へでかける。悲しいかな! 船は見ることができなかった。その船はなんとしても、下田に停泊しないことは明瞭になった。私は、これほど強く私の哲理をはたらかせてみたことはなかった。私はその船が幽霊船ではなかったかと考えたい。・・・・我われに希望の昂奮と、次いで起こる激しい失望をあたえないようにして欲しいと思う」
この頃、米国内の政治状況は、南北戦争直前の不安定な時期であった。そのために、本国の方もハリスの期待にそれほど応えられないような状態にあった。つまり、ハリスは、いくぶん日本に置き去りにされたような形にあった。そうした状況では、空は恫喝をかけるにも、かけようがなかった。その意味では、軍事力を誇示しながら、開国をせまったペリーの時とは対照的である。
日本の外務省のある高官が、著者に話したことがある。「軍事力を誇示できない外交の場合、なかなか格好のよい外交はできませんよ」と。多分それが本音だろうし、またそれは事実であろう。しかし、このような状況にもかかわらず、ハリスは出府し大統領親書を将軍に直接手交することを日本側にねばり強く主張し、断乎とした姿勢を崩さずに交渉に臨んでいる。逆境にまわったアングロサクソンは、なかなかタフである。なお、この間に、1857年6月17日下田協約が調印されている。これはペリーの神奈川条約を改定し、いくぶん間口を広めたにすぎない。しかし、これは日米修交条約への手掛りとなった。
1957年9月8日、米国砲艦ポーツマス号が下田に入港した。待望の軍艦サン・ジャシント号ではなかったがハリスは狂喜した。待ちに待った「力」が手に入ったのである。これで日本側との交渉にも、ずい分迫力がでてくる。
「この艦の訪問は、私をはげしい昂奮に投げこんだ」これはハリスの偽らざる気持であったろう。「私は号砲の発射が艦の接近を知らせてから、3時間と連続して眠りをとっていない」
この艦の入港がハリスの出府を許すことになる。結局、最後でたのみとするところになったのは「力」であった。
1857年11月23日は、ハリスにとって生涯最良の日であったかも知れない。
「今朝8時に、私は江戸への旅に出発した。私は馬に乗った。非常に天気のよい朝であった。私の旅の重大な意義を考え、江戸へ上ろうとする私の努力が成功をおさめたことを思うとき、実に溢れるような生気をおぼえた。アメリカの国旗が、目の前にかかげられた。私は、これまで鎖されていた国に、この旗をひるがえすことに、本当に誇りを感じた」
行列の人数は350人であったという。彼が下田に到着してからこの日まで、1年3ヶ月を費やしている。長い間下田にとじこめられたものである。
徳富猪一郎著『近世日本国民史』(明治書院)は「ペルリの軍艦大砲よりも、ハリスの舌鋒の方が、むしろ日本政府当局者の心を動かすには有力であり、かつ有効であった」と評している。あのペリーに劣らず、ハリスもまたアングロ・サクソン的タフ・ネゴシェーターであった。そして、ペリーのような力(軍事力)を持たないハリスとしては、徹底した粘りと「舌鋒」とに頼らざるを得なかったのである。
藤田 忠氏
特定非営利活動法人 日本交渉協会名誉理事長
1931年 青森県生まれ。
一橋大学及び一橋大学大学院に学ぶ。その後ライシャワー博士の招きによりハーバード燕京研究所で研究員として学ぶ。その際に交渉学に接し、衝撃を受ける。
以後、憂国の念をもって、日本での交渉学研究に心血を注ぐ。1983年に国際基督教大学で『交渉行動』の講座を開設。これが日本でハーバード流交渉学を紹介した嚆矢となり、以後、常に交渉学の最前線で研究、教鞭をとり現在に至る。
1988-1992年 日本経営数学学会 会長
1988-2009年 日本交渉学会 会長
2003-2021年 特定非営利活動法人 日本交渉協会理事長
2021年 特定非営利活動法人 日本交渉協会名誉理事長
【著書】
『心理戦に負けない極意』(PHP研究所) 安藤雅旺共著
『ビジネス交渉術―成功を導く7つの原理』PHP研究所 著者:マイケル・ワトキンス 監訳
『交渉力研究Ⅰ交渉力研究Ⅱ』プレジデント社
『交渉の原理・原則―成功させたいあなたのための (原理・原則シリーズ)』総合法令
『交渉学教科書―今を生きる術』文眞堂 R.J.レビスキー/D.M.サンダーズ/J.W.ミントン 監訳
『交渉ハンドブック―理論・実践・教養』東洋経済新報社 日本交渉学会 監修
『脅しの理論―すばやく決断し、たくみに人を動かす (1980年) (カッパ・ビジネス)』光文社
『幕末の交渉学 (1981年)』プレジデント社 など多数
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