黒船の交渉学 ~ペリーのポートフォリオ戦略~ 前編
NPO法人 日本交渉協会名誉理事長 藤田忠
アメリカが日本の開国を求めたのは一再ではなかった。が、ペリー以前ではその目的を達成することができなかった。ペリーが日本を鎖国から解き放ったのは、もちろん交渉者としてのペリーという人物の力量にもよるが、同時にアメリカ本国の歴史的な要請でもあった。当時、アメリカ側にして見れば、対中国貿易の隆盛と北太平洋地域での捕鯨業発達によって、日本開国の必要性がにわかに高まってきていた。そこで第13代米大統領フィルモアは、ペリー提督を東インド艦隊司令官として日本に派遣することになったのである。時に1852年3月24日のことであった。12隻からなる艦隊が彼の指揮下に入った。この大がかりな陣容からしてみても、武力行使も辞さないペリー側の強硬な姿勢がうかがえる。事実、彼は武力使用の承認も大統領フィルモアから得ていた。恫喝の交渉である。 現在でも日本人は脅しをかけないと動かないという印象が、アメリカ人にはあるようだ。ペリーの対日交渉の成功が、それを作った面がある。
「予習型」交渉者ペリー
ペリーは、日本に向かって出発するのに先立ち、日本について書かれた手に入る本はすべて読破し、その数400数冊にのぼったという。日米交渉を比較して、米国は予習型であり日本は復習型であるといわれるが、ペリーの交渉も、典型的な予習型の交渉の一つであった。アメリカでは、交渉に入る前に徹底的に研究する。これに対し、日本は復習型であり、交渉の後になってしばしば反省する。したがって、交渉の場でのリーダーシップは、どうしても予習型にとられてしまう。日本の交渉は柔道的である。受身であり、相手の力を利用する。これに対し、アメリカの交渉はボクシング的である。積極的に自分の力を用い、かつ攻撃的である。このような交渉行動の差異は、百年前も現在もさほど変わっていない。 1852年11月、ペリーはアナポリス港を出発した。翌年の5月、ペリー艦隊は琉球に寄港する。当時琉球は、英仏露の列強が機会あれば、それを占拠しようと狙っていた島である。場合によっては、米国はこれら列強に先んじてこれを占領する計画を持っていた。
さらに、小笠原島占領の計画についてのシミュレーションを行った後、用意万端整えた後、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港したのである。
ペリーが、日本との交渉に入る前、どのような腹づもりを持っていたか、彼の『ペリー提督日本遠征日記』に詳しく書かれている。そして、彼が実際の交渉過程の記述に入る前の、幕末の日本を取り巻く歴史的社会的状況についての説明もある。予習型だけあって、なかなか詳細である。
日本が歴史的にオランダ、ポルトガルなどの諸国とどのような関係を持っていたか、ということについては非常に正確にとらえており、中でも、アメリカとの関係をどのように見ていたかがわかる次の記述は、非常におもしろい。「1831年日本の船が遭難し、アメリカ西海岸コロンビアに漂着した。そのため、アメリカ商船モリソン号で送還することになった。純粋に平和目的であることを明らかにするため、同船の銃砲と装甲を全部取り外した。1837年のことである。同船が江戸湾に達すると、日本人は同船が無防備であることを知って、実弾をもって砲撃をかけてきた。そこで同船は、直ちに鹿児島に逃れた。しかし、ここでも同船を砲撃する準備がとられたのである。そこで、同船は日本人を乗せたまま、マカオに向かった。
1846年、合衆国政府は日本に遠征隊を派遣した。それは90の鉄砲を備えたコロンブス号と海防艦ヴィンセンス号であった。江戸湾に達し、10日間滞留したが、乗組員は一人も上陸できず、少しも目的を達することができなかった。
難破したアメリカ水兵16名が、日本に抑留されている報せを受けた。そこで、1849年2月、グリン提督率いるプレブル号が、彼らの救助のために日本に派遣された。提督が囚人の釈放を要求する。しかし、日本の役人は、その要求を表面は好意的に、内実は高慢な無関心さであしらった。そこで、囚人達を釈放しなければ、ある手段に訴える、アメリカ政府はその市民を保護する力と意志を持っていることを明言した。すると、初めて日本側は2ヶ月以内に囚人達を帰国させる約束をしたのである。
ペリーの日本へ対する、あの「力の外交」も、このような歴史的背景から生じてきたと言えよう。脅しをかけなければ、日本人は動かない。言葉を変えれば、脅しをかければどうにでも転ぶ、という確信である。
巧みに演出された脅し
ペリーの遠征隊は、ケープタウン、シンガポール、香港、マカオ、上海を経由し日本に来ている。日本への最初の寄港地は琉球であった。
ペリーは日本の開国ができない場合は琉球を占拠する計画を持っていた。彼によると、当時、英仏露が琉球占有を考えていたために、一足早く、アメリカが琉球を占拠し、他の列強との力関係を有利に運ぼうとしたのである。そのためもあったのだろう。ペリーが神奈川条約を締結するまでに彼らは四回も琉球を訪れている。
ペリーはなかなかのハッタリ屋であった。第一回の琉球訪問にもそれが表れている。琉球の高官達が、旗艦サクエハンナ号を訪ねたことがある。ペリーの目に映ったこの高官達は、なかなか落着きがあり、威厳さえ感じられた。ただ、艦内を見物して、置かれてあった蒸気機関を見た時は驚きの表情を隠さなかった、とペリーは言う。恐らくこの蒸気機関というのも、交渉の相手を脅かし、精神的に優位に立とうとする「小道具」の一つであったろう。ペリーは続けて言う。
「彼らは中国人よりもはるかに理解が早く、態度も心地よく、服装もずっと小ぎれいであった」。
ただ、ここでおもしろいのは、高官達が上船した時も、ペリーは一人自分の船室に閉じこもって彼らを出迎えようともしなかったことである。ペリーは、自分が相手からどう見られているかを良く心得ていた。彼ら来訪者達が提督の面前に案内された時、大気を震わす軍楽隊の吹奏が始まったのである。高官達は、今まで聞いたこともない音楽、恐ろしく威勢の良い音とリズムに圧倒されたことだろう。
この会見の後、日本側の高官達の来訪に対する答礼として、ペリー側が琉球王宮に表敬訪問することを申し入れた。高官側は、その申し入れをどう処理していいものか額を寄せて知恵を出し合っていたが、ペリーは必ず自分は会うといって強硬に押し切ってしまったのである。ペリーの演出力は充分功を奏して見事である。軍楽隊の吹奏楽に飛び上がり、見せられた蒸気に目を丸くしたりしたあたりで、すでに「落着きのある、威厳さえ感じられる……中国人よりはるかに理解の早い」高官達も、ペリーの術中にはまっていたのである。
王宮への表敬訪問を、相手の返事も聞かないうちに押し切った所に、ペリーの押しの強さが躍如としている。
日本の最も長い日
1853年7月2日早朝、ペリーはわずか4隻を率いて那覇を出発した。予定では12隻の艦隊だったが、いつ残りの艦船が集まるか不明だった。当初の船の数よりかなり数は少なくなってはいたが、遠征隊の目的をひどく損なうこともないだろうとペリーは判断したのである。
7月8日午後5時、艦隊は浦賀沖に投錨した。「日本の最も長い日」の始まりである。
日本側の防備船が旗艦サスクエハンナに横付けになる。その防備船には副奉行が乗っていた。しかし、ペリーは、この副奉行達の前には姿を現さなかった。「艦隊の司令長官は合衆国の最高位にあるものである。したがって自分が交渉する相手は浦賀の最高役人のみである」というのが、ペリー側の言い訳である。この論理を楯に、ペリーは副奉行のサスクエハンナ号への上船を拒否した。属僚排除主義である。これに続けて、ペリーは米国大統領から将軍への親書を公式に手交したい旨を伝えさせたのである。これに答えて、日本側も条件をつけた。
交渉に臨んで相手が準備不足で、こちらが事前の準備がきちんとできている時は、即決に持っていくようにした方がいい。しかし、逆にこちらが押されている時は、いったん小休止をとることである。バレーボールの試合で、適当に作戦タイムをとり、流れを変えるのに似ている。「日本の法律によれば、対外交渉は長崎だけで行う。艦隊は一度長崎に行くように」というのが日本側の出した条件である。ところがペリーは「浦賀が江戸に近い港だからわざわざここに来た。断じて長崎には回航しない」と強い態度で答えたのである。ペリーの方針は、日本政府に対しては断乎たる態度をとることであった。
日本到着以前に、ペリーは一切の公的関係において厳然と先の方針を実行しようと決心していた。それが自分の使命にとっても最善のものと確信していたのである。これまで同じ使命で日本を訪問した他の人達とは、まったく異なった方針をとることを決意していた。
この決意が賢明であったことは、その成果を見ればよいとペリーは後に言う。7月12日江戸から回答が寄せられた。奉行香山栄左衛門が、通訳を連れてサスクエハンナ号に来艦し、艦長ブカーナンと奉行との交渉が始まったのである。
奉行「本来長崎が外国人からの書翰を受け取る場所であって、浦賀は適当な場所でない。したがって、担当の役人は交渉することは許されない。ただ親書を受け取るだけである」。
ブカーナン「親書を受納するだけで結構である。彼は来艦するのか、それとも海岸で書翰を手交するのか。」
奉行「来艦せず、陸上で受け取る。」
というようなやり取りが交わされた。
親書手交の日は7月14日であった。日本側の代表は戸田伊豆守であった。
ペリーは、いかなる目論見があるかどうか知ることができなかったから、あらゆる不慮の事件に対してできる限りの用意をすることに決心した。「最小最大基準」の行動である。
最小最大基準とポートフォリオ戦略
「最小最大基準」は、簡単に言えば、「コスト(損益)の最も小なる場合」に着目し、それを選択する決断の方法である。(利益に着目した場合、「最大最小基準」と呼ぶ。呼び方が違うだけで発想は同じ、コインの裏表である。)これと反対なのが、最大最大基準である。つまり「利益の最も大なるケース」に着目し、それを選択する方法である。前者は「石橋を叩いて渡る方式」、後者は「一発勝負のギャンブラー的決断方式」である。不確実性大の決断、かなり大きなリスクを伴う決断は、一般的に最小最大基準をとるのが賢明であるとされている。
ペリーの作戦は、相手の攻め方を一つに固定しない一種の「ポートフォリオ戦略」であった。ある決断をすれば、それが百パーセント成功するということは論理的にありえない。特にその決断が、非常に重い意味を持つような場合、あらかじめ失敗を極力回避できるような手だてを講じておく必要がある。これを「ポートフォリオ的発想」と呼ぶのである。(以下、次号へ続く)
藤田 忠氏
特定非営利活動法人 日本交渉協会名誉理事長
1931年 青森県生まれ。
一橋大学及び一橋大学大学院に学ぶ。その後ライシャワー博士の招きによりハーバード燕京研究所で研究員として学ぶ。その際に交渉学に接し、衝撃を受ける。
以後、憂国の念をもって、日本での交渉学研究に心血を注ぐ。1983年に国際基督教大学で『交渉行動』の講座を開設。これが日本でハーバード流交渉学を紹介した嚆矢となり、以後、常に交渉学の最前線で研究、教鞭をとり現在に至る。
1988-1992年 日本経営数学学会 会長
1988-2009年 日本交渉学会 会長
2003-2021年 特定非営利活動法人 日本交渉協会理事長
2021年 特定非営利活動法人 日本交渉協会名誉理事長
【著書】
『心理戦に負けない極意』(PHP研究所) 安藤雅旺共著
『ビジネス交渉術―成功を導く7つの原理』PHP研究所 著者:マイケル・ワトキンス 監訳
『交渉力研究Ⅰ交渉力研究Ⅱ』プレジデント社
『交渉の原理・原則―成功させたいあなたのための (原理・原則シリーズ)』総合法令
『交渉学教科書―今を生きる術』文眞堂 R.J.レビスキー/D.M.サンダーズ/J.W.ミントン 監訳
『交渉ハンドブック―理論・実践・教養』東洋経済新報社 日本交渉学会 監修
『脅しの理論―すばやく決断し、たくみに人を動かす (1980年) (カッパ・ビジネス)』光文社
『幕末の交渉学 (1981年)』プレジデント社 など多数
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